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2024/02/24

カラフルトレインズ・7/JR/しな鉄115系

115系のつづき。


JR東海

113系のイメージが強いJR東海だが、御殿場線・身延線・中央西線・飯田線では115系が活躍した。晩年は東海道線内のみの列車でも走ったようだ。
JR東海の115系は2007(平成19)年3月を以て運用が消滅した。


御殿場線115系(三島・1991)

御殿場線の運用に就いたN5編成。JR東海独自のインバータクーラー・C-AU711での冷改を受けており、車号は電動車が5000番台・制御車は6000番台に改番されている。非ユニット窓の0番台が種車。
東海地区への0番台の新製投入はなく、他地区からの転入組である。冷改を受けているが側面方向幕の設置はなし。ヘッドライトはシールドビームに改造されている(冷改と同時かは不明)。
御殿場線の115系は身延線と共通運用になっていたこともあり、東海道線で伊東へ向かっていた際、国府津で身延色(ワインレッドにライトグレー帯)の115系を見たときはびっくりしたな。
東海道線 なつかし写真・6


飯田線115系(豊橋・1991.7.21)

飯田線115系は、JR移行直前に静岡から豊橋に転入したものが最初。
写真の静岡のS3編成は手前2両のクモハ+モハユニットがユニット窓の1000番台。集中冷房準備で製造されたが、こちらもC-AU711で冷改され、集中用のランボードが残るおかしなことになっている。
奥のクハはサハを先頭車化改造した600番台で、ランボードも見えない。1000番台の側面方向幕は準備工事のままで、Hゴムで囲った中がすべて緑で塗りつぶされている(本来はHゴムの外側と同じくオレンジも入る)のが特徴。
この快速は豊橋—豊川間のみで通過運転をするものだったと記憶している。
91.7.21 豊橋駅


JR西日本

現在JRで現役の115系はJR西所属車のみとなっている。歴代の充当路線・区間は広範囲にわたり、113系との混用も多い。
四国の予讃線・土讃線にも定期列車で入線したが、2019(令和元)年3月で乗り入れは廃止されている。
昨年7月より岡山地区にも227系が「Urara」の愛称で投入開始され、多数残る115系の廃車が始まることになる。


山陽線115系(新山口・2006.10.19)(mb)

いま海外からにわかに注目を集めている山口市に一人旅で一泊した際、山口線へのりかえ途中に撮ったもの。
広島地区の115系はクリーム地に紺帯の瀬戸内色を纏っていた。正面表示幕・運行番号幕とも使用されず、後者には編成番号が表示されている。
セキC-37は300番台で揃った4連で、まっき色も纏ったあと廃車となっている。


山陽線115系(新山口・2006.10.19)(mb)

下関行のセキC-02。モハが2000番台、クハが3000番台の編成。
3000番台は117系に似た2ドア・転換クロスシートで広島地区用に新造され、瀬戸内色を採用。のち在来車にも瀬戸内色が広まった。
登場は普通列車の短編成化による増発「シティ電車」の始まりのタイミングであり、3000番台は4両編成6本のほか、6連→4連化で抜かれた111系ユニットを挟むためのクハが15組登場した。
C-02はモハの2002ユニットが継続していて、クハがコロコロ入れ替わった結果、1500番台のクハ15番ペアが付いたのが写真の時期。のちO-01編成となったあと、クハが先に廃車された。
3000番台クハは、相手を117系から編入した115系3500番台に替えて編成美がよくなった車両もある。
06.10.19-20 山口旅行(ガラケー)


山陽線115系(岡山・2019.7.15)

所変わって岡山地区の115系。JR西は効率化を求め2009(平成21)年より国鉄形を中心とした普通列車用鋼製車両の単色化を進め、山陽地区は黄色が選定された。
私が岡山地区の列車を撮ったのはこの「まっき色」化の後のみで、すべて香川旅行の復路である。
A編成は4連。このA-10は一見40N体質改善工事を受けまろやかな外観であるが、4連のうち写真の奥側にあたる下関方のクハだけ30Nで外観が揃っていない。


山陽線115系(岡山・2020.7.25)

D編成は3連。D-11はサッカーJ2の「ファジアーノ岡山」のラッピング編成で、30Nで揃っている。
岡山の115系は113系と違って正面表示幕がLED化されてきちんと行先を示している。残念ながらLEDが切れて写っているが、この列車は姫路行ロングラン列車。


山陽線115系(岡山・2019.7.15)

幸運にも出会えた湘南色編成のD-26。D-26・D-27の2本はまっき色にされずに敢えて湘南色を保っている。こちらもLEDが切れてしまっているが、実は上と同じスジの列車で姫路行。
D編成はおおかた30Nもしくは40Nが施された車両だが、湘南色の2本はどちらも受けていない300番台編成で、先頭のパノラミックウィンドウの桟も健在である。


赤穂線115系(岡山・2020.7.25)

赤穂線長船行のD-08。30Nの3連。
赤穂線は山陽本線相生—東岡山間を播州赤穂経由で結ぶ路線で、東岡山—岡山間で山陽線に乗り入れる。
播州赤穂で運行系統が分断されており、岡山の115系は播州赤穂までの入線。播州赤穂以東は京阪神のアーバンネットワークに取り込まれている。


赤穂線115系(岡山・2019.7.15)

D-30の神戸方先頭車はクモハ115-1663。4連を3連にするためにモハ115を切妻形先頭車に改造したもので、30Nも同時に施された。
廃車になった先頭車の運転台機器を流用しているが、顔をまるまる取り付ける選択ではなかったわけだ。
改造時は京阪神更新色であったが、まっき色化でハロウィン風だ。クモハ115-1600番台は4両のみの改造で、D-28〜31に編成されている。


伯備線115系(岡山・2019.7.15)

山陽線倉敷から中国山地を突っ切って山陰線の伯耆大山に至る伯備線の列車も、岡山まで乗り入れてくる。
伯備線の115系の列車は2〜7両編成でさまざま(5両はない)だが、この列車は最短の2連。
写真の切妻の車両はクモハ114-1098で、クモハ115とモハ114の1000番台ユニットのモハ114を先頭車改造したもの。まるで旧国クハ85のように助士側に方向幕を付けた、非貫通シンプルフェイスだ。


宇野みなと線115系(岡山・2019.7.15)

岡山と宇野を結びかつては宇高連絡船へのアクセスとして賑わった宇野線は、瀬戸大橋線開通でローカル線に転じた。
岡山—茶屋町間は「瀬戸大橋線」と「宇野みなと線」の路線愛称重複区間となっている。D-18も30Nで揃った編成だ。
岡山の車両は「クリアテール」となっており、テールライトは消灯時白目をむく。


宇野みなと線115系(岡山・2020.2.9)

D-26に会えた前年7月の次の訪問時に、また湘南色に遭遇。D-27で、これで2本しかない湘南色の両方に会えたわけだ。
このときは2月の夜で寒さも考慮。新幹線へののりかえまで長い余裕を設けなかったため、115系は2本しか撮れなかったうちの1本で、運が良かった。
撮影時記事 2018.7.17 2019.7.15 2020.2.9 2020.7.25


しなの鉄道

長野新幹線開業により、信越線の横川—軽井沢間は廃止。軽井沢—篠ノ井間は第三セクターの「しなの鉄道」に転換。旅客車両は115系・169系がJR東日本から譲渡された。
その後新幹線が金沢に達し北陸新幹線となった際には、信越線の長野—妙高高原間もしなの鉄道北しなの線へ転換された。
169系引退時、北しなの線開業時に、それぞれJR東から115系が追加で譲渡された。2020(令和2)年からSR1系が初の新製車として投入され、115系は廃車が進んでいる。
ここでの写真はすべて、前記事の新潟から移動して訪れた2018(平成30)年9月のものである。


しなの鉄道115系(長野・2018.9.19)

しな鉄の115系は3連と2連がある。
この列車は2連のS22と3連のS10の5両編成の篠ノ井発豊野行で、篠ノ井—長野間はJR東の信越線として残っている区間を走る。
篠ノ井はしなの鉄道しなの鉄道線(ややこしいね)の終点であるが、この列車はしな鉄車両ながら自社線ではなくJRを進んで行く。
写真の通り、ホームがたくさんある長野駅で進行方向で一番右のホームに入るという変態経路をとるのも面白い。


しなの鉄道115系(千曲—屋代・2018.9.19)

しなの鉄道標準色は側面がほぼダークグレーというへんてこなもので、裾の白細ボーダーなど塗装工程が面倒くさそうな配色となっている。路線の背景からも、無駄な経費をかけないようにすべきと感じるが。
この編成はS23。2連口は169系引退時に代替として7本が入線したが、昨年3月までに全編成が廃車されている。SR1系が2連口であることが大きいのだろう。


しなの鉄道115系(長野・2018.9.19)

115系がゴロゴロしているだけでも魅力のしな鉄だったが、2017(平成29)年7月からの信州デスティネーションキャンペーンに合わせてリバイバルカラーが登場。
しな鉄で最初にリバイバルカラーとなったのがこのS7の初代長野色。
写真の列車は後述のコカ・コーラ色と組んで朝の快速「しなのサンライズ号」でやってきた折り返しで、3+3の6両編成。
現在「しなのサンライズ号」と夜の「しなのサンセット号」はデュアルシートのSR1系100番台がクロスシートのセットで担っている。


しなの鉄道115系(戸倉・2018.9.20)

戸倉駅は電留線があり、昼間はたくさんの編成が留置されているねぐら駅である。
旅の間に都合のいい運用に就かなかった湘南色のS3は、この戸倉での記録にとどまった。この日は予備で寝っぱなしだった。
カラーリングの復刻であるためJRロゴがなく、国鉄風の新鮮な姿。車内は湘南色化前からリニューアル済で、初代長野色のS7とともに記事アップ時点では現役だ。


しなの鉄道115系(千曲—屋代・2018.9.19)

S16はスカ色となった。JR東でも2014(平成26)年に長野のC1編成がスカ色化された(翌年11月で引退)が、正面タイフォン下の紺色の「角丸」が小さくてファンには不評だった。このS16はしっかり角丸が大きめで再現されている。
訪問当時は、地理的に近くて同じくリバイバルカラーが次々現れる新潟と合わせて訪れたくなるタイミング。自身も長い連休が取れたのでいい旅だった。
S16は車内も国鉄時代の青モケットの原型座席を保つ車両だったが、一昨年に廃車となっている。


しなの鉄道115系(長野—北長野・2018.9.18)

しな鉄開業時の115系はこの新長野色で転入し、しな鉄ロゴを貼った状態で走り始めた。
その後赤グレーに統一されたが、このS15はリバイバルカラーとして再度新長野色に戻ったもの。ただし転入時のしな鉄ロゴはなく、JRロゴもない。
新長野色はJR時代の登場であり、どちらのロゴもないのは新長野色の第3形態である。S15も車内は国鉄キープだったが、一昨年廃車となっている。


しなの鉄道115系(信濃国分寺—上田・2018.9.20)

S11はコカ・コーラ広告編成。JR黎明期に北長野運転所N12編成が実際に纏った格好で、これもリバイバルカラー。国鉄の感覚も色濃い当時、車体丸々広告にしたのは異例中の異例だった。
このリバイバルはクラウドファンディングで資金を集めたもので、コカ・コーラのロゴは写真時点で使用されているものに変わっているが、何より素晴らしいのは、このS11自体が当時のN12編成そのものであることだ。
コーラ色は2020(令和2)年の入場で終了ししな鉄色に戻ったが、S11は昨年7月よりアニメ『Turkey!』の広告車となり、今度はクリーム色の地肌にコーラロゴと同じくドア間腰部にロゴを貼ったスタイルとなっている。
現在しな鉄で現役の115系はすべて車内のリニューアル工事済であり、ボックスシートの背もたれの角が面取りされたようなものになっている。原型の背もたれの角が直角の車両はなくなった。




しなの鉄道115系「ろくもん」(戸倉・2018.9.20)

しな鉄の115系の異色車がS8を改造して2014(平成26)年に登場した「ろくもん」編成。タイポグラフィ全開の、水戸岡鋭治の手によることが一目で判る観光列車。
車内も水戸岡氏王道の木材を多用した内装で、1号車は食事なしプラン向け座席と木のプールなどキッズスペース、2・3号車は食事付きプラン向けの各種座席やキッチン等が設けられている。中央ドアの閉鎖など、外回りでも塗色以外の変化が見られる。
この日は運行日ではなく、ねぐらの戸倉にいる姿。職員のものか、乗用車が真脇に並んで駐車されていていて、こんな結果に。
「ろくもん」も現役で稼働中。しな鉄の115系で最後まで残るのはこの編成かもしれない。
そして、しな鉄と山陽地区はどっちが最後の現役115系になるだろうか?

しな鉄撮影記事は、こちら以降の複数記事で。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2024/02/23

カラフルトレインズ・6/JR115系

113系に続くは、やっぱり115系。

115系は1963(昭和38)年に111系をベースに登場。主電動機をMT46からMT54へ変更し、パワーアップしている。113系の登場も同年であるが115系より後である。
区別のため111系とは前面の塗り分けが異なる形となったが、非鉄の人にはよくわからないだろう。
この10年内ぐらいだと思うが、鉄道好きタレントの扱いを受けている石原良純がとあるテレビ番組で、吾妻線を走る115系を見て「お、まだ113系が走ってるんだ」と言っていたのを鮮明に憶えている。それ以来「鉄道好きを騙るのであれば、113系と115系を見分けるぐらいはできてほしい…」と思いながら鉄道出番時の良純の姿を観ている。
111系でグロベンだった通風器は押込式に、半自動対応の取っ手付ドア、ドアレールヒーター設置等、寒冷地対策が盛り込まれた。そして、主制御器は勾配区間対策でノッチ戻し機構と抑速ブレーキが付いた。


宇都宮・高崎線

宇都宮線は東北線の東京—黒磯間の愛称、高崎線は東北線の大宮から高崎に至る路線であるが、高崎線も大宮以南は東北線に乗り入れて一体化しており、車両は共用である。


東北線115系快速「ラビット」(上野・1988)

115系が最初に投入されたのは東北線で、上野—宇都宮間と日光線の列車に用いられ、旧国80系などの置き替えに充てられた。
当初は4連口のみで、最大12連まで組んだそう。私が撮影を始めた時点では、東北・高崎線は東海道線、横須賀・総武快速線、常磐線とともに、最大15連の長大中電軍団となっていた。
写真は撮影の年に登場した東北線快速「ラビット」の運用に就いた姿。
宇都宮・高崎線 なつかし写真・1


宇都宮線115系(大宮・1992)

1990(平成2)年3月のダイヤ改正より、東北線の上野—黒磯間は「宇都宮線」の愛称が付いた(当時は東京—上野間の運行はなし)。写真の時点では側面方向幕の使用開始準備まで進んだ頃(準備工事状態→幕を設置したがまだ白幕)で、しっかりと編成の全車に区間表示のサボ( 上 野⇔小金井 など)が入っていた。色は東北線→宇都宮線が青地白文字、高崎線は白地黒文字だった。115系は基本編成7連と付属編成4連を組み合わせてさまざまな編成を組んだ。15両編成を組む場合は7連1本と4連2本の3本をつなげる。
宇都宮・高崎線 なつかし写真・2


高崎線115系(浦和—北浦和・1988.12.25)(d)

東北線に1年後れて、高崎線にも115系が登場した。客車列車で運行されていた東京駅経由の東海道線直通列車も引き継ぎ、なんと前橋—富士間というとんでもない運用範囲だったそうだ。
写真の列車は高崎線からの池袋行で、基本7連の池袋寄り3両が非冷房。赤羽—大宮の三複線区間は貨物線を走行し、貨物線にホームがなかった浦和駅は通過していた。
当時は池袋より南へ入る列車はなかったが、のちに新宿まで延伸。その後の湘南新宿ライン運行につながっていく。
その後上野東京ラインも整備され、東京駅経由で北関東と静岡県を結ぶ列車も復活した。


高崎線115系(南浦和・1988.12.23)

こちらは上野行。こうして正面の表示幕が白目をむいている編成もちょいちょいあった。
東北線が小山、高崎線が新前橋の車両が基本であったが、後継の211系は新前橋に多く投入された感覚。撮った列車のデカ目率が高いのは、新前橋に車齢の高い車両が多かったのかも?(たぶん偶然)


上越線115系(八木原・1991)

北関東の電化路線も115系が席巻していた。スカ色中心の旧国からの置き替えである。
高崎駅には上越線、信越線のほか、上越線から分かれる両毛線や吾妻線の列車も乗り入れていた。
列車番号700台は渋川から吾妻線に入らず上越線を直進する列車。写真の編成は3連。


両毛線115系(桐生・1990)

立派な高架2面4線の桐生駅に到着した両毛線115系。非冷房の4連。
高崎口の支線区の列車は現在211系が後を継いでいるが、211系も古い車両であることに変わりはない。
宇都宮・高崎線3&上越・両毛線なつかし写真


房総115系(千葉・1991)

1991(平成3)年、小山電車区の115系4連が房総用に貸し出された。ヤマ62。
写真は試運転?(正面表示幕はワープロ文字で「回送」の貼り紙がされている)で千葉駅の総武本線ホームを出発したところで、背後は千葉都市モノレールの高架橋脚。恐らく113系の冷改のための予備車用と思われるが、詳細は不明。
房総各線 なつかし写真・3


115系(西船橋・1990.6.24)

京葉線・武蔵野線にやってきた宇都宮・高崎線用7連基本編成による団臨。TDL向けで特急・急行形の団臨はよく来たが、115系はレアだったな。
6連のみだった武蔵野線に8連が登場するのは翌年の12月であり、この頃は武蔵野線内の駅で停まったらホームに収まりきらなかったはずだ。武蔵野線内の乗り降りはなさそうだけどね。
なお撮っている場所である西船橋9・10番のりばは京葉線開業時の10連対応になっており、このときも運転停車している。
京葉線 過去の臨時列車


115系訓練車・EF81 85(大宮・1992)

大宮で遭遇した訓練車。イメージだと電車がホーム、機関車が中線というのが自然だが、面白い位置取りになったな。
当時は特急形も含め、こんな白帯2本を加えた訓練車があちこちの電車区に居た。この編成の所属が小山か新前橋かは不明。一線を退いた車両を使うため、この訓練車もデカ目で非冷房だ。


中央東線

現在の「中央東線」は中央本線のうち高尾—塩尻間を指すイメージだが、立川・豊田・八王子発着の列車も一部ある。現在は高尾—大月間はE233系の「中央快速線」からの乗り入れ列車が増えたほか、115系は長野の211系に置き替えられている。


中央東線115系・キハ58系(小淵沢・1988.1.3)(d)

家族で貸別荘地で正月を過ごした中1の冬。小淵沢駅近くの跨線橋から駅を眺めた写真。
115系スカ色・湘南色、キハ58系標準色が並ぶ、JR移行後だがまだまだ国鉄が色濃く残る風景。
中央線 なつかし写真・4


中央東線115系(小淵沢・1989.9.16)

こちらは翌年のもの。当駅始発の高尾行。スカ色の115系は古い車両が多かった。デカ目は0番台で非ユニット窓。
0番台編成は、モハ114のみ狭小トンネル対策の低屋根車・800番台が用いられていた。


中央東線115系・小海線キハ58系(小淵沢・1989.9.16)

小海線も使う4番線(いまは5番線)に入った長野地区用の湘南色115系。スカ色同様当駅始発列車として待機中の姿。
小淵沢駅は現在は八王子支社と長野支社の境の駅となっている。シートピッチ拡大の1000番台で、ヘッドライトはシールドビーム。
中央線・なつかし写真3


中央東線115系(下諏訪・1989.9.16)

湘南色の115系はこの年から長野色(のち旧長野色と呼ばれる)への塗色変更が始まった。
非冷房だが、冷房準備工事を施した新製のため、屋根中央にランボードが見える。中央線 なつかし写真・2


中央東線115系(高尾・2009.7.25)

1992(平成4)年から、長野地区の115系は標準色を新長野色に再度変更。
1998(平成10)年の長野オリンピックに備えたイメージアップのためだそうだが、せっかく考えた旧長野色に失礼である。
当時は国鉄形の標準塗装を白系べースのカラフル帯の姿に変えるのが流行っていた(GUあずさ、ひたち、白山…各地域の気動車…)が、写真のように汚れが目立つ欠点がある。
撮影時記事


中央東線115系(西八王子・2010.1.2)

豊田の115系のシングルアームパンタへの交換は1998(平成10)年からと早い。
2000(平成12)年12月のダイヤ改正で豊田の115系は小淵沢以西に入らなくなり、84両が松本へ転出。300番台3連12本に整理された。
3連を2本つないだ6両編成での姿。撮影時記事


115系(保土ケ谷・2012.5.5)

2002(平成14)年に松本から豊田に戻ってきたM40は、豊田で唯一の6両貫通編成となった。三鷹にいた169系の代替であり、主にホリデー快速や波動用に用いられた。
写真は南越谷—鎌倉間で運行の「ホリデー快速鎌倉」の復路便への回送だが、表示幕は「快速」のまんまである。
撮影時記事


115系快速「おさんぽ川越号」(船橋法典—西船橋・2013.2.9)

こちらはわが地元近くにやってきたM40の「おさんぽ川越号」で、新習志野—川越間での運行。300番台なのでシートピッチは1000番台より狭く、長距離乗車向けなら1000番台のほうがよかったのに、とも思う。
撮影時記事


新潟地区

信越本線を中心とした新潟地区はたくさんの115系が活躍していた。転入転出や塗色の移り変わりが多く、晩年は撤退を控えてそれらのリバイバルカラーが多数登場し、撮影ネタフィーダーとなっていた。
私もそのフィードにガブリ食らいついた一人で、2018(平成30)年9月に新潟地区を訪れた。115系は新潟車両センターに所属していた。


信越線115系(新潟・2018.9.16)

新潟地区に最初に投入されたのは、東北・高崎線で300番台に押し出された湘南色の0番台で、赤と黄色の旧国たちの置き替えに充てられた。
このN38は3次新潟色であったが、リバイバルシリーズで前年に湘南色に戻った。リンク記事の通り3両とも1000番台のトップナンバーで編成されており、写真は貴重な新井行快速として始発の新潟駅に入線するシーン。
撮影時記事


越後線115系(白山・2018.9.17)

こちらは翌日の越後線白山駅でのN38。
柏崎—新潟間を吉田経由で結ぶ越後線は1984(昭和59)年に弥彦線(東三条以西)とともに電化され、115系運用数拡大のため他地区から転入車が発生。身延線からの2000番台も含まれていたという。
115系の中では暖地型とされる2000番台車は、耐寒耐雪対策が施されたそうだ。
撮影時記事


越後線115系(新潟・2018.9.16)

新潟駅高架ホームへ入った越後線の列車。このN40は新潟地区の旧国のみが纏っていた赤と黄色の「懐かしの新潟色」に塗られた。
115系ではN3とこのN40がリバイバルで纏ったのみで、湘南色の塗り分け線に則って塗られた。
個人的にはスカ色のバランス(黄色の天地が狭い)のほうが旧国の塗り分けに近いと感じた。
N2のほうは新潟駅高架線で必要なATS-Pを付けておらず、この時点ですでに廃車されていた。


弥彦線115系(吉田・2018.9.16)

弥彦線は弥彦と東三条を結ぶ路線で、吉田で越後線、燕三条で上越新幹線、東三条で信越線と接続する。東三条—越後長沢間は電化対象から外れ、東三条以西の電化翌年に廃止されている。
写真のN37が纏うのは「一次新潟色」で、国鉄末期に新潟地区の車両に施された塗装。気動車にも広まったものであるが、「マスキングめんどくさい」感が強いデザインで、意図が見えない。赤帯は運転台横で新潟のNを造っているが、助士側ではИになる。
ただ、私はこのヘンな塗装に会えて嬉々としていたのは間違いない。
撮影時記事


越後線115系(新潟—白山・2018.9.17)

翌日、N37が越後線に入った姿。助士側のИが見える。E129系投入が進んで当時の115系の運用はすでに限定的で、フラっと行っても会える確率は低かったが、逆に運用を調べて把握しておけば狙いやすかった。
この信濃川橋梁は外様の私も知るベタな撮影地で、土手にはたくさんの撮影者が集まった。
撮影時記事


越後線115系(新潟・2018.9.16)

N33はN35とともに「2次新潟色」を纏った。1993(平成5)年から登場したもので、こちらは気動車には波及せず、115系のみが対象となった。
この塗色は「キムワイプ」というあだ名がある。理系の実験時などに使われる紙製ウエスの商品名だが、その紙箱の配色に似ているからだ。


越後線115系(新潟・2018.9.16)

N36は「3次新潟色」。リニューアル工事を受けた編成のうち1999(平成11)年12月に出場した分よりこの塗色が採用された。
あだ名はキムワイプの姉妹商品である「JKワイパー」。同じく紙箱の配色からだが、瀬戸内の213系、特急車の北越色やくろしお色のほうが似つかわしく、キムワイプきっかけの強引な紐付けである。
これが新潟地区の最後の標準色であり、この編成はリバイバルではなくいわばガチカラーであったが、翌月大宮に入場し「2次弥彦色」にリバイバルされた。

その後上のN33が「1次弥彦色」となり、この年3次新潟色のまま出場したN34を含め、所属の115系7本がすべて異なるカラーとなった。
私が新潟へ行ったのはこれっきりであり、弥彦色2本は触れずじまいであった。(つづく)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2024/02/17

カラフルトレインズ・5/JR113系

今回は113系。新性能電車の近郊形は交直両用車401・421系が最初であり、その後直流専用の111系が登場。113系はそのパワーアップ版。
401・421系は153系同様運転台が低いクハが存在するが、111系以降の東海顔は高運転台のみである。


113系

113系は湘南色、スカ色のほか、阪和色、春日色(関西線)が国鉄時代に登場。後ろ2つは撮れる機会がなかった。
阪和色については国鉄末期に1両だけ房総ローカル用に転入ししばらくそのままの色でいたそうで千葉県民の私としては見られなかったのが惜しいが、ちょうど私が中1で撮影を始める頃にはスカ色に変わっていたと思われる。

111系が最初に投入されたのは東海道線東京口。
普通列車に用いられていた旧国80系や153系は2ドア・デッキ付であり、通勤ラッシュ時の乗降に手間取っていた。他方で長距離利用も考慮し、結果として401・421系同様の直流セミクロスシート車導入となった。
111系のモハは64ユニットで製造終了し、モーター出力を強化した113系に移行した。111系モハユニットは113系登場後静岡地区や山陽線へ転用されている。


東海道線113系(東京・1989)

私が撮影を始めた頃の東海道線東京口はグリーン車2両入り11連が基本編成で、付属編成が4連。最大15両編成で運用された。
一部、4連を2本つなげたグリーン車のない8両編成の列車もあった。
東海道線 なつかし写真・1


東海道線113系(東京・1987.11.8)(d)

サロ111は111系として新製された車両。サロ153の車掌室なしバージョン。この写真は中1で初めて撮り鉄をした日のもので、トップナンバーを見つけて真横から撮ったもの。
ほかに、モデルになったサロ153が転入したサロ110、一段下降窓のサロ152・サロ163改造のサロ112、定員の少ない新製車サロ113などが登場。サロ110に関してはその後特急・急行形からの改造車がどんどん詰め込まれた。モハが113系になってもトレーラーのクハ・サハ・サロについては基本的に111系の数字を継続したが、サロについてはもう何が何だか…というところ。


東海道線113系(品川・1989)

サロの極み付がこちら。グリーン車は自由席であることから、通勤時間帯は事前にグリーン券を購入しても着席できないケースが増えた。改造編入車の老朽化取り替え目的もあり、211系とともに113系にも2階建てグリーン車が導入された。
211系と基本構造は共通であり、ご覧のように編成時は違和感しかないビジュアル面となった。形式は車掌室付がサロ124、トイレ付がサロ125となり、前者が多く用意された。後年すべて211系に編入されている。


東海道線113系快速「アクティー」(東京・1990)

快速「アクティー」に充当された姿。東京口の東海道線は東京—横浜間において京浜東北線に、横浜—戸塚間で横須賀線に対する快速列車のような存在であるが、アクティーは横浜以西でも通過駅がある。
設定当初の通過駅は戸塚・辻堂・大磯・二宮・鴨宮・早川・根府川だったが、その後徐々に通過駅が減っていった。最後は夜の下り2本のみとなり、昨年3月のダイヤ改正で消滅した。


東海道線113系(熱海・1988)(d)

熱海駅はJR東日本とJR東海の境界駅であり、東京口とは別の113系が待っていた。4連は東京口へ付属編成としても乗り入れた。
JR東海車は側面のJRロゴが小さいのと、ボックスシートに枕カバーが付いていたので区別がついた。


東海道線113系(吉原・1991)(d)

3連の短編成を組む東海ローカル。


東海道線113系(名古屋付近・1989)(d)

中学の修学旅行の新幹線車内から併走する列車を撮ったもの。
非ユニット窓・グロベン・デカ目の古い車両。



京阪神113系(米原・1991.9.15)(d)

米原で寝台急行「銀河」から北陸線へののりかえの際についでに撮った京阪神の113系。
後になって私はこの2枚が同じ編成かと思っていたのだが、1枚目の奥のクハがJR移行後の分散冷房改造車に見えるので、これは別々の編成かもしれない。2枚目も4連と思ってたが、後ろがカーブのため、もっと編成が続いているかもしれない。
おそらくこの時代、東京から下関まで113系だけを乗り継いで行けたのではと思う。
東海道線 なつかし写真・2


奈良線113系(京都・1991.9.16)

こちらは翌日、特急「タンゴエクスプローラー」で京都に着いた際、やはりついでで撮ったもの。
奈良線だけに春日色の可能性もあったが、湘南色。京阪神・湖西線・山陰線でも湘南色の113系が走っており、京都駅は湘南色だらけだった。まぁ今は221系だらけと言えるか。
東海道線 なつかし写真・6


外房線113系(誉田—土気・2011.5.3)

房総用が残るのみとなっていたJR東日本の113系も終焉が近づき、湘南色がリバイバルカラーとして2本登場した。過去には横須賀・総武快速線も含め、転入車が湘南色のままで走ったこともある。
この列車は6連のマリS62と4連のマリ117の湘南色2本が揃って10両編成を組んだ姿。この時点で113系の6連はマリS62のみとなっており、7日後には長野へ廃車回送された。
撮影時記事


横須賀・総武快速線113系(横浜—保土ケ谷・1992.9.6)

東海道線に次いで111系が投入されたのが横須賀線。東海道線同様113系に移行した。111系は湘南色だったが、113系移行後にスカ色に変更した。
正味の横須賀線は大船—久里浜間23.9kmのみであるが、東海道線の貨物線と地下別線を走る東京—大船間も路線系統名として横須賀線とされている。
写真は並行する相鉄本線の平沼橋駅から撮ったもので、私の中で数少ない横須賀線区間での一枚。


横須賀・総武快速線113系(本八幡・1991)

総武快速線には東京地下駅延伸時に1000'番台が投入された。
当初地下線対応でA-A基準準拠の1000番台が用意され先に房総各線で走り始めたが、地下線ではATCを使うこととなり、ATC対応・ユニット窓・冷房準備車の通称1000'番台が改めて造られた。のち、冷房付での新製に移行した。
地下線の品川延伸後に直通運転する横須賀線にも1000'番台が投入され、直通開始後はボックスのシートピッチを拡大した1500番台も投入された。
総武快速線 なつかし写真・1


横須賀・総武快速線113系(千葉・1990)

スカ線のサロも111、110、113や特急形からの編入車があった。
特にサロ113はこのスカ線系統用に新製されたもので定員48名の優雅な車両。京阪神や宇野線に飛んでいた時期もあったが、転用先のグリーン車運用廃止でスカ線にすべて戻っている。鋼製サロに絞って撮った写真がなかったのは失敗だ。
写真は東海道線とともに導入されたサロ124。211系と同じ斜めの線もある帯装飾となった東海道線用と違い、スカ線向けは側面中央を直線でぶった切る別デザインとなった。
211系に編入後も湘南色帯が直線に入ったため、元スカ線車両であることがひと目で判った。


横須賀・総武快速線113系(津田沼・1994.4.17)

成田線で運転士が亡くなる踏切事故が起きたことを受け、東海顔の各系列に前面補強が施された。
当初は写真のように一部にカラー帯を貼っただけで、「鉄仮面」と称された。4枚アンチクライマーが目立つ。のちに塗装されて色の見た目は原状に回帰している。
前面補強自体は国鉄時代から順次行われていたもので、全車がこのアンチクライマーの見た目になったわけではないが、その従前のものより強固な形とのこと。
総武快速線 なつかし写真・2


房総113系(千葉・1989)

千葉駅を起点とし北へ東へ南へ進んでいく房総各線には、様々なタイプのスカ色がゴロゴロしていて楽しかった。
こちらは非冷房のマリ242で、ネット上で調べたところ写真の先頭車は千葉方のクハ111-1337と思われる。
当時路線別方向幕を用いておらず、この列車がどの路線に行くかは今になってはわからない。


内房線113系(千葉・1991)

内房線の線内快速に就いたマリ69。総武線からの直通でない快速の写真はこれ1枚のみだ。
隣に201系がいるということは、このホームが内房線発着ホームであり、内房線と確定した。
写真のデカ目はクハ111-1324で、上のシールドビームの1337と番号が近いが、クハ111-1300台は1332以降がシールドビームでの新製だそうだ。
房総各線 なつかし写真・1


外房線113系(安房天津—安房鴨川・2011.5.27)

房総各線ではある時期から正面の方向幕の地色で行先の路線を示すようになった。赤は外房線。
写真は手前からマリ217+マリ106の8両編成。安房鴨川行で「勝浦回り」と付記されている。側面方向幕は白地のままだったのが、サービスとしては中途半端だった。その点は211系では改善されている。
撮影時記事


内房線113系(長浦・2010.8.3)

内房線の正面幕は紺。まぁそれまでの「普通」幕と変わらない色だ。
手前から4連マリ116+6連マリS65の10両編成。紺幕での安房鴨川行は「木更津回り」と入る。撮影時記事


総武本線113系(物井・1992.9.27)

現在と印象が違う、ローカル感溢れるホームの物井駅。
千葉以北の総武本線は黄色幕。千葉以西の緩行線との区別のため、敢えて総武本線と案内しているが、黄色は緩行線と一緒という…。マリ72は1000番台で揃った6連。


成田線113系(物井・1992.9.27)

成田線は黄緑幕。
写真はマリ217で、外房線の写真と同じ編成番号だが、タイフォンの位置からして、車両は入れ替わっているようだ。房総各線 なつかし写真・2


鹿島線113系(成田・2010.2.21)

成田線の香取から分かれる鹿島線は、成田線と同じ色。鹿島線は香取から2駅目の十二橋駅以降は茨城県であり、113系は茨城県も走っていた。
マリ214はアンチクライマーが目立ち、鉄仮面タイプの補強がされているのがわかる。
撮影時記事


東金線113系(大網・2008.11.8)(mb)

大網始発で東金線内運用のこの列車は「普通」を表示していた。
編成番号札が見えてないが、データを漁ったら当時の記録が見つかり、この車両はマリS66のクハ111-1133と判明した。
通常は東金線は外房線と同じ赤である。
アルバム 房総各線113系


113系新聞列車(市川・2010.2.13)

房総113系の特筆列車が、この「新聞電車」。
房総半島の指定地区へ配達する夕刊を積んだ列車で、総武線両国駅3番線で新聞を積み込み、千葉駅から外房線・内房線の営業列車として運転するもの。そのため、千葉駅までは4連を2本併結して回送列車として走る。
2010(平成22)年3月のダイヤ改正で廃止された。113系の前はクモユニ143が使われていた。
撮影時記事


113系「旅れっしゃ京葉号」(海浜幕張・2010.5.29)

びゅう商品の一環として運転された「旅れっしゃ京葉号」。京葉線で113系に乗車できる列車で、6両のうち3両は一般客も乗れるというステキなもの。
海浜幕張での38分停車の中、正面幕回しのサービスが始まった。「快速 茂原」という面白い幕。快速の文字色は「外房線なので赤」のようだ。リンク記事参照。
撮影時記事


クハ111-1072・2152(ポッポの丘・2015.10.19)

スカ色マリ218のクハ111-1072と湘南色マリ117のクハ111-2152。
共に2011(平成23)年に廃車後長野県上田市の民宿に据え付けられたが、その後2年ほどで千葉県いすみ市の『ポッポの丘』にやってきた。
民宿へ行った時点でカットボディとなっており、2つのクハ183と4つ並んで余生を過ごしている(183系の1つはフルボディ)。
露天展示のポッポの丘の課題である雨ざらしのため塗装がボロボロになっていたが、昨年クハ111-2152は修復された。その際湘南色からスカ色に変身している。現在は写真の状態から1072と2152の位置が入れ替わっている。
撮影時記事


湖西線113系(大津京・2016.3.19)

湖西線は1974(昭和49)年に開業し、耐寒耐雪装備の700番台が用意された。115系っぽい感覚もあるが、抑速ブレーキ不要ということなんだろう。
その後草津線電化時に登場した車両が2000番台ベースの耐寒耐雪仕様の2700番台で、基本的にこの2つの番台が湖西線と草津線をまかない、のちに高速化対応改造され、+5000の5700・7700番台となった。
私の中では湖西線は湘南色で正面幕は赤地白抜き文字で「湖西線」と書かれたイメージだったが、この写真の時には抹茶色・水色幕に変わっていた。パノラミックウィンドウの桟がなくなり、1枚ガラス化されている。ベンチレーターも撤去されている。
撮影時記事


湖西線113系(京都・2016.3.19)

こちらは正面の桟や通風器どころか、体質改善工事で更にあちこち角が取れまろやかになった編成。車内も転換クロスシートとなり、ゴリゴリに変身している。
車体色はJR西日本が塗装工程省力化のため単色化したもので、深緑は「京都・北近畿地区地域統一色」である。
撮影時記事



山陽線113系(岡山・2019.7.15)

山陽線岡山地区の113系は瀬戸内地区地域統一色の黄色。いつまでも国鉄車両を使い続けることを揶揄され「末期色(まっきいろ)」とも呼ばれる。
現在は115系と入り交じって走っているが、残っている113系はすべて体質改善車で揃っている。ただ正面の方向幕が自動化されていないことから、正面は何も表示を行っていない。115系はLEDで行先を表示しており、見分けがすぐにつく。
227系Uraraの投入により今後置き替えが進められる。
撮影時記事


予讃線113系(高松・2018.7.17)

さいごはJR四国に移った113系。国鉄再末期の予讃線電化当初は111系が静岡から転用され、新製の121系とともに活躍した。
その後111系の老朽化を受け、6000系を2本新製したが、残りはJR東日本から113系を譲受し、魔改造が施された。
正面は方向幕がヘッドライトケースに変わり、両側の窓下は補強(私は「宍戸錠化」と呼んでいる)のうえ新たにライトケースを設置。表示幕は新たに貫通扉に設けた。
4連3本が改造され、それぞれ異なる派手なカラーリングとなった。車号は四国独自のものとして1から振り直され、先頭車も113系らしいクハ113・クハ112を名乗っている。



予讃線113系(岡山・2018.7.17)

車内はJR西日本風に扉間転換クロスシートとなり、居住性は改善されている。
そして、四国車独自の点が、写真の「モハ112の乗務員室」。無人駅での集札や監視の際、編成の中間にも乗務員室があると便利なようだ。横から見ると一見切妻先頭車のようにも見える。
四国の113系は写真の翌年8月にこの編成を最後に全廃。同2月には121系の7200系化も完了しており、JR四国の電車がVVVF車で統一された。
撮影時記事

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)