113系に続くは、やっぱり115系。
115系は1963(昭和38)年に111系をベースに登場。主電動機をMT46からMT54へ変更し、パワーアップしている。113系の登場も同年であるが115系より後である。
区別のため111系とは前面の塗り分けが異なる形となったが、非鉄の人にはよくわからないだろう。
この10年内ぐらいだと思うが、鉄道好きタレントの扱いを受けている石原良純がとあるテレビ番組で、吾妻線を走る115系を見て「お、まだ113系が走ってるんだ」と言っていたのを鮮明に憶えている。それ以来「鉄道好きを騙るのであれば、113系と115系を見分けるぐらいはできてほしい…」と思いながら鉄道出番時の良純の姿を観ている。
111系でグロベンだった通風器は押込式に、半自動対応の取っ手付ドア、ドアレールヒーター設置等、寒冷地対策が盛り込まれた。そして、主制御器は勾配区間対策でノッチ戻し機構と抑速ブレーキが付いた。
宇都宮・高崎線
宇都宮線は東北線の東京—黒磯間の愛称、高崎線は東北線の大宮から高崎に至る路線であるが、高崎線も大宮以南は東北線に乗り入れて一体化しており、車両は共用である。
東北線115系快速「ラビット」(上野・1988)
115系が最初に投入されたのは東北線で、上野—宇都宮間と日光線の列車に用いられ、旧国80系などの置き替えに充てられた。
当初は4連口のみで、最大12連まで組んだそう。私が撮影を始めた時点では、東北・高崎線は東海道線、横須賀・総武快速線、常磐線とともに、最大15連の長大中電軍団となっていた。
写真は撮影の年に登場した東北線快速「ラビット」の運用に就いた姿。
宇都宮・高崎線 なつかし写真・1
宇都宮線115系(大宮・1992)
1990(平成2)年3月のダイヤ改正より、東北線の上野—黒磯間は「宇都宮線」の愛称が付いた(当時は東京—上野間の運行はなし)。写真の時点では側面方向幕の使用開始準備まで進んだ頃(準備工事状態→幕を設置したがまだ白幕)で、しっかりと編成の全車に区間表示のサボ( 上 野⇔小金井 など)が入っていた。色は東北線→宇都宮線が青地白文字、高崎線は白地黒文字だった。115系は基本編成7連と付属編成4連を組み合わせてさまざまな編成を組んだ。15両編成を組む場合は7連1本と4連2本の3本をつなげる。
宇都宮・高崎線 なつかし写真・2
高崎線115系(浦和—北浦和・1988.12.25)(d)
東北線に1年後れて、高崎線にも115系が登場した。客車列車で運行されていた東京駅経由の東海道線直通列車も引き継ぎ、なんと前橋—富士間というとんでもない運用範囲だったそうだ。
写真の列車は高崎線からの池袋行で、基本7連の池袋寄り3両が非冷房。赤羽—大宮の三複線区間は貨物線を走行し、貨物線にホームがなかった浦和駅は通過していた。
当時は池袋より南へ入る列車はなかったが、のちに新宿まで延伸。その後の湘南新宿ライン運行につながっていく。
その後上野東京ラインも整備され、東京駅経由で北関東と静岡県を結ぶ列車も復活した。
高崎線115系(南浦和・1988.12.23)
こちらは上野行。こうして正面の表示幕が白目をむいている編成もちょいちょいあった。
東北線が小山、高崎線が新前橋の車両が基本であったが、後継の211系は新前橋に多く投入された感覚。撮った列車のデカ目率が高いのは、新前橋に車齢の高い車両が多かったのかも?(たぶん偶然)
上越線115系(八木原・1991)
北関東の電化路線も115系が席巻していた。スカ色中心の旧国からの置き替えである。
高崎駅には上越線、信越線のほか、上越線から分かれる両毛線や吾妻線の列車も乗り入れていた。
列車番号700台は渋川から吾妻線に入らず上越線を直進する列車。写真の編成は3連。
両毛線115系(桐生・1990)
立派な高架2面4線の桐生駅に到着した両毛線115系。非冷房の4連。
高崎口の支線区の列車は現在211系が後を継いでいるが、211系も古い車両であることに変わりはない。
宇都宮・高崎線3&上越・両毛線なつかし写真
房総115系(千葉・1991)
1991(平成3)年、小山電車区の115系4連が房総用に貸し出された。ヤマ62。
写真は試運転?(正面表示幕はワープロ文字で「回送」の貼り紙がされている)で千葉駅の総武本線ホームを出発したところで、背後は千葉都市モノレールの高架橋脚。恐らく113系の冷改のための予備車用と思われるが、詳細は不明。
房総各線 なつかし写真・3
115系(西船橋・1990.6.24)
京葉線・武蔵野線にやってきた宇都宮・高崎線用7連基本編成による団臨。TDL向けで特急・急行形の団臨はよく来たが、115系はレアだったな。
6連のみだった武蔵野線に8連が登場するのは翌年の12月であり、この頃は武蔵野線内の駅で停まったらホームに収まりきらなかったはずだ。武蔵野線内の乗り降りはなさそうだけどね。
なお撮っている場所である西船橋9・10番のりばは京葉線開業時の10連対応になっており、このときも運転停車している。
京葉線 過去の臨時列車
115系訓練車・EF81 85(大宮・1992)
大宮で遭遇した訓練車。イメージだと電車がホーム、機関車が中線というのが自然だが、面白い位置取りになったな。
当時は特急形も含め、こんな白帯2本を加えた訓練車があちこちの電車区に居た。この編成の所属が小山か新前橋かは不明。一線を退いた車両を使うため、この訓練車もデカ目で非冷房だ。
中央東線
現在の「中央東線」は中央本線のうち高尾—塩尻間を指すイメージだが、立川・豊田・八王子発着の列車も一部ある。現在は高尾—大月間はE233系の「中央快速線」からの乗り入れ列車が増えたほか、115系は長野の211系に置き替えられている。
中央東線115系・キハ58系(小淵沢・1988.1.3)(d)
家族で貸別荘地で正月を過ごした中1の冬。小淵沢駅近くの跨線橋から駅を眺めた写真。
115系スカ色・湘南色、キハ58系標準色が並ぶ、JR移行後だがまだまだ国鉄が色濃く残る風景。
中央線 なつかし写真・4
中央東線115系(小淵沢・1989.9.16)
こちらは翌年のもの。当駅始発の高尾行。スカ色の115系は古い車両が多かった。デカ目は0番台で非ユニット窓。
0番台編成は、モハ114のみ狭小トンネル対策の低屋根車・800番台が用いられていた。
中央東線115系・小海線キハ58系(小淵沢・1989.9.16)
小海線も使う4番線(いまは5番線)に入った長野地区用の湘南色115系。スカ色同様当駅始発列車として待機中の姿。
小淵沢駅は現在は八王子支社と長野支社の境の駅となっている。シートピッチ拡大の1000番台で、ヘッドライトはシールドビーム。
中央線・なつかし写真3
中央東線115系(下諏訪・1989.9.16)
湘南色の115系はこの年から長野色(のち旧長野色と呼ばれる)への塗色変更が始まった。
非冷房だが、冷房準備工事を施した新製のため、屋根中央にランボードが見える。中央線 なつかし写真・2
中央東線115系(高尾・2009.7.25)
1992(平成4)年から、長野地区の115系は標準色を新長野色に再度変更。
1998(平成10)年の長野オリンピックに備えたイメージアップのためだそうだが、せっかく考えた旧長野色に失礼である。
当時は国鉄形の標準塗装を白系べースのカラフル帯の姿に変えるのが流行っていた(GUあずさ、ひたち、白山…各地域の気動車…)が、写真のように汚れが目立つ欠点がある。
撮影時記事
中央東線115系(西八王子・2010.1.2)
豊田の115系のシングルアームパンタへの交換は1998(平成10)年からと早い。
2000(平成12)年12月のダイヤ改正で豊田の115系は小淵沢以西に入らなくなり、84両が松本へ転出。300番台3連12本に整理された。
3連を2本つないだ6両編成での姿。撮影時記事
115系(保土ケ谷・2012.5.5)
2002(平成14)年に松本から豊田に戻ってきたM40は、豊田で唯一の6両貫通編成となった。三鷹にいた169系の代替であり、主にホリデー快速や波動用に用いられた。
写真は南越谷—鎌倉間で運行の「ホリデー快速鎌倉」の復路便への回送だが、表示幕は「快速」のまんまである。
撮影時記事
115系快速「おさんぽ川越号」(船橋法典—西船橋・2013.2.9)
こちらはわが地元近くにやってきたM40の「おさんぽ川越号」で、新習志野—川越間での運行。300番台なのでシートピッチは1000番台より狭く、長距離乗車向けなら1000番台のほうがよかったのに、とも思う。
撮影時記事
新潟地区
信越本線を中心とした新潟地区はたくさんの115系が活躍していた。転入転出や塗色の移り変わりが多く、晩年は撤退を控えてそれらのリバイバルカラーが多数登場し、撮影ネタフィーダーとなっていた。
私もそのフィードにガブリ食らいついた一人で、2018(平成30)年9月に新潟地区を訪れた。115系は新潟車両センターに所属していた。
信越線115系(新潟・2018.9.16)
新潟地区に最初に投入されたのは、東北・高崎線で300番台に押し出された湘南色の0番台で、赤と黄色の旧国たちの置き替えに充てられた。
このN38は3次新潟色であったが、リバイバルシリーズで前年に湘南色に戻った。リンク記事の通り3両とも1000番台のトップナンバーで編成されており、写真は貴重な新井行快速として始発の新潟駅に入線するシーン。
撮影時記事
越後線115系(白山・2018.9.17)
こちらは翌日の越後線白山駅でのN38。
柏崎—新潟間を吉田経由で結ぶ越後線は1984(昭和59)年に弥彦線(東三条以西)とともに電化され、115系運用数拡大のため他地区から転入車が発生。身延線からの2000番台も含まれていたという。
115系の中では暖地型とされる2000番台車は、耐寒耐雪対策が施されたそうだ。
撮影時記事
越後線115系(新潟・2018.9.16)
新潟駅高架ホームへ入った越後線の列車。このN40は新潟地区の旧国のみが纏っていた赤と黄色の「懐かしの新潟色」に塗られた。
115系ではN3とこのN40がリバイバルで纏ったのみで、湘南色の塗り分け線に則って塗られた。
個人的にはスカ色のバランス(黄色の天地が狭い)のほうが旧国の塗り分けに近いと感じた。
N2のほうは新潟駅高架線で必要なATS-Pを付けておらず、この時点ですでに廃車されていた。
弥彦線115系(吉田・2018.9.16)
弥彦線は弥彦と東三条を結ぶ路線で、吉田で越後線、燕三条で上越新幹線、東三条で信越線と接続する。東三条—越後長沢間は電化対象から外れ、東三条以西の電化翌年に廃止されている。
写真のN37が纏うのは「一次新潟色」で、国鉄末期に新潟地区の車両に施された塗装。気動車にも広まったものであるが、「マスキングめんどくさい」感が強いデザインで、意図が見えない。赤帯は運転台横で新潟のNを造っているが、助士側ではИになる。
ただ、私はこのヘンな塗装に会えて嬉々としていたのは間違いない。
撮影時記事
越後線115系(新潟—白山・2018.9.17)
翌日、N37が越後線に入った姿。助士側のИが見える。E129系投入が進んで当時の115系の運用はすでに限定的で、フラっと行っても会える確率は低かったが、逆に運用を調べて把握しておけば狙いやすかった。
この信濃川橋梁は外様の私も知るベタな撮影地で、土手にはたくさんの撮影者が集まった。
撮影時記事
越後線115系(新潟・2018.9.16)
N33はN35とともに「2次新潟色」を纏った。1993(平成5)年から登場したもので、こちらは気動車には波及せず、115系のみが対象となった。
この塗色は「キムワイプ」というあだ名がある。理系の実験時などに使われる紙製ウエスの商品名だが、その紙箱の配色に似ているからだ。
越後線115系(新潟・2018.9.16)
N36は「3次新潟色」。リニューアル工事を受けた編成のうち1999(平成11)年12月に出場した分よりこの塗色が採用された。
あだ名はキムワイプの姉妹商品である「JKワイパー」。同じく紙箱の配色からだが、瀬戸内の213系、特急車の北越色やくろしお色のほうが似つかわしく、キムワイプきっかけの強引な紐付けである。
これが新潟地区の最後の標準色であり、この編成はリバイバルではなくいわばガチカラーであったが、翌月大宮に入場し「2次弥彦色」にリバイバルされた。
その後上のN33が「1次弥彦色」となり、この年3次新潟色のまま出場したN34を含め、所属の115系7本がすべて異なるカラーとなった。
私が新潟へ行ったのはこれっきりであり、弥彦色2本は触れずじまいであった。(つづく)
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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