2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現Googleアルバム経由での再貼付しかなく、アルバムの貼り直しから進めていました。
しかし5月4日に作業の続きをしようとしたら、古いリンクが復活してるではないですか!💢
ということで、再貼付準備をした分(これが結構進んじゃった。最悪)は
記事の方の貼り直しを進めます。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。(←ここ変わってない)

2024/02/07

カラフルトレインズ・1/JR103系前編

新規ネタができてないため、記事が立たない状況が続いている。

基本的に当ブログの写真は初めて自分で撮った1987(昭和62)年以降のものである。
(唯一、阪急嵐山線での写真は幼稚園児の自分が写った、父(鉄道趣味なし)が撮ったもの)20代とその前後、まったく鉄道を撮っていない時期もあるが、せっかくの豊富な量の写真を改めてまとめ直すのも面白いかな…ということで、廃れ防止のまとめ記事を立てよう。

カラーリングが多数発生した車両たちを並べる記事にする。今後は他のくくりも出るかもしれない。
当然自分が撮れたものだけなので、「何であの路線の写真はないの?」と言うのはナシで。


103系(大宮・1991.6.6)

大宮の留置線に並んだ4色の103系。カナリアがいなかったが、同系列がカラフルであることを示す風景。
赤丸付ウグイスの非冷房車は連結器代わりの控車である。奥に見える機械扱いのDD16が入換を行う。
まずはこの103系から行ってみよう。

※まとめ記事では通常記事でキャプションに加える(再掲)は省略


JR103系・前編

101系をベースに経済性を高めたのが103系。大都市圏を中心に通勤ラッシュを支えた系列だ。
最初の投入は山手線で、そのカラーはウグイス。当時は101系でオレンジ・カナリアが登場していた。


山手線103系(神田・1988)

投入当初低運転台・非冷房だった山手線103系は、ATC導入により、クハは運転台背後にATC機器室を設けた高運転台車が新たに配置された。
正面窓の天地が狭まり、のっぺりしすぎるその顔を和らげるためにステンレス線の飾りが付けられた。
山手線 なつかし写真・1


埼京線103系(十条・1990)

十条駅を含む池袋—赤羽間は元は赤羽線であり、カナリアの103系が用いられていた。
東北新幹線と一緒に新設した赤羽—大宮間と一体化して埼京線となると、車両はウグイスに変更された。
205系の投入が続く山手線もウグイスの103系が残っていて、新宿—池袋間ではウグイス10連の並走が見られた。


川越線103系3000番台(川越・1990)

埼京線整備とともに直通先の川越線も電化が行われ、埼京線10連が乗り入れない川越以西は103系3000番台3連が投入された(電化当初は3000番台も大宮まで行く運用もあった)。
もとは旧国72系の車体を103系並の車体に載せ替えた仙石線向けのアコモ改造車であったが、今度は72系のままだった足回りを103系にしたのだ。
103系0番台の高運転台車はすべて冷房付で新製されたが、仙石線時代非冷房だったこの車両は103系化の際にAU712を用いて冷改された。いわゆる簡易冷房と呼ばれるタイプだ。
後年、八高南線の電化・直通開始に伴い、青梅・五日市線編成に挿入されていたサハ103-3000番台(仙石線時代は4連で、各編成の川越線に回らなかったモハ72奇数車1両ずつがサハ103となった)が改めて編成に加わって4連化されている。
埼京線・川越線 なつかし写真


大和路線103系(三郷・2016.9.21)

国鉄時代、関東以外でウグイスの103系が走ったのは関西線のみ。電化時に投入された101系の置き替え用であった。
101系と同じく、正面に黄色の警戒帯が入る独自のスタイルだった。現在のような昼間のヘッドライト点灯が始まると警戒帯は廃止されたが、その後保線作業員の声から再度警戒帯が復活。写真の白帯が採用された。
撮影時記事


奈良線103系(JR藤森—桃山・2016.3.19)

奈良線でも大和路線と同じウグイスが4連で走っていた。
JR西日本の103系で遅くまで残った車両は、ほとんどが戸袋窓閉鎖が施されている。
この2016年の撮影は、もっと数が少なくなってからの「葬式」に混じるのが嫌で、今のうちに、という遠征であった。
撮影時記事


京浜東北・根岸線103系(田町・1989.8)

ウグイスに続いて登場したのが京浜東北・根岸線向けのスカイブルー。
山手線同様低運転台・非冷房で始まり、ATC対応の高運転台クハが先頭に来る形に再編されていった。
6+4の10両編成が多かったのも特徴。両端3両ずつが冷房車・中間4両が低運転台のクハ・クモハを含む非冷房車という姿もあった。


京浜東北・根岸線103系(山手・1990)

根岸線山手駅での1枚。根岸線は横浜と大船を根岸経由で結ぶ路線で、運行は横浜から北の京浜東北線と一体化している。
また、京浜東北線の東神奈川で接続する横浜線の列車も片乗り入れしており、かつては同線用のウグイスの103系も走っていた。山手(やまて)駅に山手(やまのて)線ではないウグイスの103系が来ていたのだ。
昭和の古い時代から山手線を「やまてせん」と呼ぶ人も多く、実際国鉄が用意した「山手 YAMATE」の表記のサボや方向幕が1971(昭和46)年まで使われていた。それはあたかも山手駅行の列車のようであった(有名なヨドバシカメラのCMソングも当初は「♪ま〜るいみどりのやまてせん〜」と唄っていた)。
京浜東北・根岸線 なつかし写真


阪和線103系(津久野・2016.9.20)

関西では京阪神緩行が先かと思いがちだが、最初の103系投入は阪和線。
駅間距離が短い路線を想定した性能の103系だが、当初は快速用として用意されたそうだ。
写真の編成は手前3両が40N体質改善工事で垢が抜けまくったスタイル。せっかくリニューアルしても、編成を通じて同じ形になっていないこういう編成も多々見られたのは残念。
撮影時記事


羽衣線103系(鳳・2016.3.20)

阪和線の支線で鳳—東羽衣間の1駅だけの盲腸線「羽衣線」の103系は3連での運転だった。
先頭のクモハは中間車からの改造である。JRになってからの改造であるが、高運転台ではなく敢えて古い顔の低運転台で造られた。
撮影時記事


仙石線103系(仙台・1988.11.3)

地上ホーム時代の仙石線仙台駅での1枚。
仙石線には旧国72系の置き替えのため首都圏のお古の103系が回された。写真当時は非冷房車ばかり(105系に改造された2連2本は冷改済)。
運転台直後の戸袋窓はタブレット交換時のガラス破損を避けるため閉鎖された。ドアは寒冷地対策で半自動となっており、103系では珍しいコの字形の大きな取っ手が取り付けられた。この撮影時開け閉めをしてみたが、思いのほか重かった記憶がある。
運転台のデフロスター取付・正面通風口閉鎖も施されている。


京葉線103系(葛西臨海公園・1991.12.1)

京葉線の最初の開業時(西船橋—千葉みなと)は朝夕10両・昼6両と時間帯により増解結が設定され、前述の京浜東北線の6+4の編成がそのままスカイブルーでやってきた。
編成もそのままで、基本6連は冷房車3両と非冷房車3両、付属4両は冷房車3両と非冷房車1両という形。
しかし昼間の利用は低迷し、のちに基本4両に変更された。図の通り。


京葉線103系分割変遷

新木場—南船橋・千葉みなと—蘇我間延伸開業時、昼間の編成は6両に戻されたが、冷房車で揃えられた。葛西臨海公園での写真はまさにその6両運転である(当時、同駅の通過線は未設置)。
その後利用増加により終日10両に移行している。


京葉線103系(市川塩浜・1990.7.1)

付属編成としてまとめられた4両の非冷房車はのち簡易冷房改造が施された。冷改時に側面方向幕が取り付けられたのはクモハのみだった。
クモハの運行番号窓は新木場・蘇我延伸時のATS-P使用開始に伴って潰された。電動車で機器が多いためか、ATS-P対応機器のスペースが足りなかったのだ。
美的観点で言えば、運番窓跡にJRロゴを移せばのっぺり感が和らいだと思う。
京葉線 なつかし写真・4


和田岬線103系(兵庫—和田岬・2016.9.21)

山陽線の支線の和田岬線は、羽衣線同様1駅間だけの盲腸線。ただし朝夕の通勤時間帯のみの運行で、電化前は座席をほとんど取り払った旧形客車やキハ35系が専用で用意されていた。
電化後は京阪神緩行と同じスカイブルーの103系を用いたが、編成は1両少ない6連の専用車両であった。ただし座席の撤去などはされず、車内は広告がないこと以外は至って普通だった。検査時は京阪神緩行の207系が代走していた。
営業のない時間帯には教習用にも使われ、正面のワイパーが窓3枚すべてに付いている(教官の視界確保のため?)のが特徴だった。
撮影時記事


常磐快速線103系(取手・1988)

3色目は常磐快速線用のエメラルドグリーン。成田線我孫子支線電化後は直通運転も行っている。
国鉄時代の103系基本5色(ほかはオレンジとカナリア)のうち、唯一101系に存在しなかった色である。
また関西圏の103系でもほかの4色はあったが、この色だけはなかった。JR化後の2004(平成16)年に登場した加古川線用の3550番台が初めての関西圏でのエメグリ103系である。
最大10両編成想定だった103系を15両編成で走らせたのもこの常磐快速線のみ。モーターをギョワンギョワン唸らせた通過音は圧巻であった。


常磐快速線103系1000番台(三河島・1991)

常磐緩行線の営団千代田線直通用として用意されたのが1000番台。塗色はライトグレー地にエメグリ帯となり、クハは地下線での非常時対応として貫通扉が付いて、表情が変わっている。
編成は勾配対応のため8M2Tの強力10連。しかし千代田線はAB線が単線トンネルで二手に分かれる形が数駅続く区間があり、単線トンネルでは103系の抵抗制御の排熱が十分にできず、機器の不具合が増えた。
そこで、チョッパ制御の203系を投入し、103系1000番台は快速線や105系への改造での西日本のローカル電化線への転用に充てられた。
快速線転用後は順次エメグリ1色に塗装変更され、0番台との混成も生まれた。


常磐線103系(上野・1989)

他の4色に比べ、高運転台クハがなかなか登場しなかったのもエメグリの特徴。新製ではなく転属でJR化後に登場したと記憶している。
私が撮ったのはこの1枚だけ。晩年増えてよく見られた頃は私は撮り鉄をしていなかった。


我孫子線103系(我孫子・1991)

常磐線我孫子駅から成田に至る成田線の「我孫子線」区間は、房総用113系と常磐線103系が共存する路線だったが、のち常磐線車両に統一された。
写真は我孫子線内折り返し列車で、常磐快速15両編成のために用意された付属5連を使っている。我孫子線内の最大は10両編成。これは現在のE231系でも同じである。
常磐快速線 なつかし写真

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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