山手線に続いて今回は京浜東北・根岸線のなつかし写真。
京浜東北線は大宮—横浜間を、根岸線は横浜—桜木町—大船を結ぶ通勤路線。両線の運行は一体化されている。この記事でも特に必要がなければ「京浜東北線」と記す。
「京浜東北線」は路線愛称で、正式には大宮—東京が東北本線、東京—横浜間が東海道本線。1914(大正3)年の運行開始時は東京以南のみの列車で「京浜線」と呼ばれていたが、のちに大宮まで達し、1956(昭和31)年に案内上の名称が正式に「京浜東北線」となった。
田端—品川間では山手線と並行。並行区間では日中は快速運転、その他は各駅停車で需要に対応。日中以外で並行区間のみの乗車であれば、両線で先に来た電車に乗ればよい。
103系(東京・1987.11.8)(d)
私が初めて列車の写真を撮った日の1カット。京浜東北線の日中快速運転は半年後の1988(昭和63)年3月から。
後ろに見えるのは東海道線113系のサロ。
103系(北浦和—浦和・1988.12.25)(d)
東北本線区間を行く。大宮—赤羽間は東北本線・東北貨物線との三複線を形成。現在は宇都宮・高崎線と湘南新宿ラインが実質京浜東北線の快速列車的存在になっている。
また、東京—横浜間でも東海道線が同じような存在だ。
103系(品川・1988)
電車区の制約などの経緯から分割編成が多く見られた京浜東北線103系。ATC化以降は10連の中央に低運転台で非冷房のクハ+クモハ-モハ-サハ4両が入っていた。その中間クハ・クモハの方向幕は「小田原」なんかを表示していて楽しかった。京葉線開業時にはこの分割編成が転属し、昼間時の減車運用に対応した。
そんな車齢の高い中間車の冷改等の都合か一時的にイレギュラーな組成も登場。ATC付高運転台車同士が中間で向かい合ったり、サハ代用のようなスタイルでクハが入ったことも。当然後者の場合、隣の中間車の貫通扉は施錠されていた。
103系(田町・1989.8)
23日と同じ位置での写真。
現在の快速の停車駅は田端、上野、秋葉原、東京、浜松町、田町、品川となっているが、当時は浜松町には停まらなかった。
浜松町に停まるようになったのは、同駅から出ている東京モノレールがJR東日本の傘下になってからだ。そもそも田町も必要ないように思えるが、これは品川が京浜東北線と山手線の路線別ホームになってしまうため。田町なら両線が方向別共通ホームとなるので、同一ホーム上でのりかえられる。浜松町に停めるなら田町は通過でいい気がするが、田町対大井町以遠利用者に対する配慮なんだろう。
東海道線が停まる新橋は当初から現在まで通過のままだ。
103系(品川・1989.8)
すでに通過区間を過ぎていながら「快速」を出したままの列車。23日の記事の1415A列車の写真を見ると、新橋—浜松町間では快速表示だが、田町では各駅停車表示になっている。
となりのクモルや2ドアで窓周りが白い京急2000形も気になる写真。となりのクモルの写真はまた別の機会に。
なお、田町—品川間には将来山手線・京浜東北線上に新駅が設置されるそう。これは東北縦貫線開業・田町車両センターの縮小に絡む動きだろう。
103系・489系(御徒町・1989)
留置中の「白山」用489系と並んだ103系。上野—秋葉原間は東北本線の線路がそのまま延びて留置線となっていた。
もともとは東北本線と東海道本線はつながっていて、湘南新宿ラインのように直通運転もしていた。その頃は尾久が東海道本線、田町が東北本線の長距離列車の車庫になっていたという。
ところが、東北新幹線の整備にともなって秋葉原—神田間の線路が取り壊され、上野口は留置線に転用された。
「東北縦貫線」はこの途切れた線路を復活させるようなもので、東京—秋葉原間は東北新幹線の上にさらに高架を設けるべく工事が進んでいる。
これができると、宇都宮・高崎・常磐線の一部が東京駅へ達し、山手・京浜東北線の上野→秋葉原間の猛烈な通勤ラッシュが緩和される。東北縦貫線には途中駅は設けられず、上野—東京はノンストップとなるそうだ。
103系(大宮・1990)
上屋の影と自身の影で幾何学的な模様を創り出す。
103系(山手・1990)
根岸線山手駅での103系。山手駅には山手線は通らないが、かつての山手線はサボや方向幕に「山手YAMATE」と書かれていて、あたかもこの駅に来そうな表示だったが、のち「山手線YAMANOTE LINE」に改められた。山手線はそもそも「やまのてせん」だったのだが、終戦後にローマ字表記を進めた際に部内呼称の「やまて」を用いてしまい、それが定着してしまったそうだ。
205系(山手・1990)
京浜東北線205系は1989(平成元)年10月に登場。横浜線、南武線、中央・総武緩行線、埼京線につづく投入だった。
最大で6編成と少数派のまま209系に置き換え。活躍は最初の投入から最後の編成の撤退まで6年半ほどだった。
横浜線は1988(昭和63)年9月の投入で、片乗り入れ先の京浜東北・根岸線の東神奈川—大船間は205系がひと足先に走り始めていたことになる。
写真のように、根岸線内でも「京浜東北線」の表示を出していた。
205系(田町・1990)
ウラ4編成は前回触れた山手線11両化時の助っ人となった編成で、京浜東北線で最後に残った205系編成(撤退当時はウラ81編成)となった。
103系・山手線205系(上野・1990.5.6)
上野駅で2番線に入った京浜東北線北行(東北本線と東海道本線で上り下りが逆になるので北行・南行と表現する)。
このときは事故か故障でダイヤが乱れ、山手線内回り線に京浜東北線が入っていた。
103系(御徒町・1990.5.6)
山手内回りに南浦和行、京浜東北北行に回送列車が登場し、両側に京浜東北北行列車が並んだ。
205系・山手線205系(御徒町・1990.5.6)(再掲)
かつての日中はこのように山手線・京浜東北線がどちらか1線に集まって、空けた1線をメンテナンスしたりしていた時代もあったが、これは非常時の運行。
こういうことがあるために、前回記事に書いた「山手線ホームドア取付→山手線6ドア車廃止」という流れになったわけだ。
103系(品川・1992.12)
並行する山手線は1988(昭和63)年に205系化が完了したが、京浜東北線は依然103系の勢力に揺るぎはなかった。
ところがこの年の5月、のちの209系900番台となる901系が投入されると、翌年には量産車の投入が始まり、103系は衰退の一途を辿る。
残念ながら京浜東北線の209系の写真は1枚も撮れていない。
103系(大宮・1994.10.9)
JR東日本の103系で晩年まで残った車両は、正面の窓類が金属押さえになったものが多かった。Hゴムも白の生産がなくなっているため交換をすると黒に変わった。またウラ76編成のように屋根材が正面に回り込んだ車両もあった。
京浜東北線の103系は1998(平成10)年まで活躍した。それを置き換えた209系も、いまは数少なくなってしまった。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
2 件のコメント:
こんばんは。
首都圏で当たり前の存在だった103系が次々と姿を消していった当時、新しい世代の車両になかなか見慣れなかったのではないでしょうか。それくらいにどの路線でも走っていて、通勤電車と言えば必ず想起する程に103系は意識しない存在でした。
今では、京浜東北線には2世代後の車両が走っていると思えば、車両の入れ替えも随分早くなったものです。
お写真、楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc
すごいですね昔の電車が見られて良かったです
コメントを投稿
コメントは管理人が通知メールを確認後掲載可否の判断をします。
表示まで日数がかかったり、非掲載となる場合があります。
管理人はコメントへの返信必須のスタンスではありませんが、掲載した場合は「コメントありがとうございます」の意味がこもっていますので、予めご了承下さい。