2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2009/11/27

武蔵野線 なつかし写真・1

今回は武蔵野線。
自宅からその姿を眺められる武蔵野線・京葉線の列車はさすがに過去に撮ってる枚数が多い。画質がよくないものも多いのが難点だが… そこは恥ずかしがらずに公開。

武蔵野線は1973(昭和48)年に府中本町—新松戸間が開業した。
本来の建設目的は貨物線としてで、都心の山手貨物線の過密状態を緩和する狙いがあった。そのためか、沿線人口の少なさもあって、旅客列車は日中40分ヘッドという今では考えられないのんびりした状態だった。
翌1974(昭和49)年、吉川—三郷間に武蔵野操車場開設、1976年には鶴見—府中本町間が貨物専用線として開業、1978(昭和53)年には新松戸—西船橋間が開業して現在の姿になった。
新松戸以南は建設時は「小金線」と呼ばれていて、私の地元の高架線(西船橋から海側の京葉線部分)建設時も地元民は「小金線を造っている」と表現をしていた。私はその高架の脇の小学校に通っていた。「小金」は常磐線の北小金駅に見られるあの辺りの地名だ。

武蔵野操車場は当時最新の設備を誇ったが、貨物扱い量の減少により1986(昭和61)年に廃止されてしまった。新三郷駅はその前年に開設された追加設置駅で、本線が広大な操車場を抱き込む形になっているところにホームを置いたため、上下ホームが360mも離れているというとんでもない駅となり、ギネスブックにも載った。自転車で駅に通った人は困っただろう。
操車場廃止から13年経った1999(平成11)年、上り線(西船橋→府中本町)を下り線となりに移設して現在のノーマルな対向式2面2線の駅となった。
現在操車場跡地は今年9月にオープンした「ららぽーと新三郷」を中心とした「ららシティ」となり、駅の住所は昨年10月に「三郷市ららシティ2-4-1」となった。
新三郷から2駅西の越谷レイクタウンは昨年開業、1駅西の吉川との間(やはり操車場跡地)にも新駅設置が決まり、武蔵野線北東部はいまとても熱い地区になっている。

武蔵野線開業時には、新小平前後の長大トンネル区間の存在を考慮して、地下鉄向けA基準に則ったオレンジの101系1000番台が投入された。これは101系を難燃化改造したもので、外観に大きな変化はない。
のち、増便や101系の老朽化のため103系が各線からの転属により順次投入された。転属車は旧所属線区でのカラーそのままで走り、103系の基本5色(ウグイス、スカイブルー、オレンジ、カナリア、エメラルドグリーン)すべてが顔を見せた。
こちらにも書いたが、私の通った小学校からは武蔵野線西船橋駅に停まっている列車の顔が見え、エメラルドグリーンの電車が停まっているのを初めて観たときは目を疑った。
JR移行後は転属前に塗色変更する方針となり、以後そういう列車は見られなくなった。


103系(西船橋・1988.1.4)(d)

私の撮った一番古い武蔵野線の写真。101系1000番台から続く「府中本町-西船橋」の方向幕を出している。101系のころは英字なしで本町と西が小さかったが、このころは英字入りで漢字もすべて同じ大きさの文字になっている。常磐線にもたまに「上野-取手」という幕を出した103系が走っていた。


103系(西船橋・1988)


103系(西船橋・1988)(f)

写真は京葉線の新木場・蘇我延伸前のもので、ともに先頭のクモハ103は運行番号窓が生きている。
武蔵野線はすべてこの西船橋の11・12番線で折り返していた。京葉線のスカイブルーの103系は9・10番線に入り、同じく全て折り返し。両線ののりかえは階段の上り下りが必要だった。9・10番線のホームは京葉線のため10連対応となっているが、現在通る定期旅客列車はすべて武蔵野線車両の8連で、ホームはもてあまし気味。


103系(西船橋・1988)


103系(市川塩浜—西船橋(開業前)・1988)

1988(昭和63)年12月の京葉線新木場・蘇我延長に備えた試運転列車。わざわざ3連に組み替えているのが面白い。
延長開業後はスカイブルーの京葉線列車は西船橋には来なくなり、代わりに武蔵野線が西船橋から市川塩浜・南船橋両方向へ片乗り入れする形に変わる。
京葉線は当時新型のATS-Pを使用することになったため、武蔵野線車両にも対応機器の取付が進んだ。クモハ103に関してはそのままだと機器スペースが足りず、運行番号表示器を撤去・窓を埋めての取付となった。


103系(西船橋・1988.12.1)(d)


103系(新木場・1988.12.1)(d)

京葉線新木場・蘇我延伸開業初日の写真。



103系(西船橋—南船橋・1988.12.4)(d)

デルタ線を西船橋へ向かって進む103系。千葉みなと開業時から使われている西船橋から南船橋へ抜けるこの区間は京葉線二俣支線となった。反対に新たに開通した西船橋から市川塩浜へ抜ける線路は高谷(こうや)支線。
この写真はデルタ内にある二俣新町駅ホーム上から撮ったもので、現在は手前に建物が建ったため撮れないアングル。二俣新町はこうして目の前を武蔵野線列車が通過していく悲しいポジショニングの駅だ。



103系(新松戸・1988.12.4)(d)

デルタ線の写真と同日の新松戸での風景。新松戸駅は上り線府中本町方が若干高くなっていて、停車中の下り列車を狙うと見下ろした感じになる。
クハ103に関してはスペースがあったようで、ATS-P対応後も運行番号窓は生きている。


103系(南船橋・1988.12.4)(d)

新たにレールが敷かれた南船橋駅の内側ホームに並ぶオレンジの103系。


103系(西船橋・1988.12.10)(d)


103系(新松戸・1989)

京葉線直通開始後も、西船橋行の設定は残った。
私は高校時代に武蔵野線を利用していたが、朝の西船橋始発の上り列車を並んで待って、着席睡眠で通っていた。その列車は9番線始発。現在でも9番線折り返しの武蔵野線列車が設定されている。
また写真の新松戸で折り返す列車もある。これは定期列車ではなく中山競馬場開催時に運転される新松戸—西船橋間の臨電で、西船橋からやって来た列車はとなりの南流山の中線に入って折り返す。



103系(西船橋・1989.3.15)

各所からの転入車で構成された武蔵野線103系はタイプもさまざま。初期形しかないクモハ103からATC対応クハ103までさまざまな先頭車が見られた。新木場行のクモハは運行番号窓を埋めた部分の塗り直しが目立つ珍車両。
新木場・蘇我開業後は武蔵野線は新木場・南船橋まで直通するようになった。西船橋では基本的に外側9・12番線に南船橋方面の二俣支線、内側10・11番線に新木場方面の高谷支線を通る列車が入るようになっている。






103系「ADトレイン」(西船橋・1989)

なつかし写真では総武線、山手線に続いて登場のADトレイン。この編成は高運転台ながらATC非対応で製造されたグループのため、乗務員室扉後部の戸袋窓がある。


201系(西船橋・1988)(f)


201系(西船橋・1989)

少数が活躍した201系。当時の武蔵野線は豊田電車区の所属で、103系は青梅・五日市線、201系はさらに中央線も含めて共通使用されていた時期があり、特快サボ差しをつけた先頭車も走った。武蔵野線車両の留置は東所沢電車区が使用された。



103系(南浦和・1989)

クモハに続くモハ102はクーラーキセがステンレスのタイプ(AU75G?)で、ユニットを組むクモハと異なっている。
距離の長い武蔵野線の途中駅で現在始終着があるのは東所沢と南越谷のみ。南越谷は府中本町との2往復があり、深夜着下り列車2本の車両が引上線に留置され、早朝発の上り列車で出て行く。
吉川—新三郷間に設置予定の新駅は折り返し設備を有する予定で、新たな行先が増えるかもしれない。

南浦和は京浜東北線との接続駅。東北本線上には浦和を挟んで北浦和とこの南浦和があったが、武蔵野線開業により南浦和を挟む西浦和と東浦和駅が誕生し、“浦和”の基本+東西南北が揃った。
1985(昭和60)年には埼京線が開業し、武蔵野線との交点に武蔵浦和駅、その北隣には中浦和駅が設けられた。苦肉の策のような名の「武蔵浦和」は武蔵野線との接続駅という意味もある。本来、旧国名をつけるのは「山口」に対する「肥前山口」などまったく違う土地にある地名と区別するためなのだが、旧国名を取った駅名がすぐ近所にあるというのは他には名鉄の「知立」と「三河知立」(隣同士)くらいだろう。
現在は埼玉高速鉄道に「浦和美園」駅もあり、“浦和”のつく駅は8駅になっている。武蔵野線ではそのうち西浦和、武蔵浦和、南浦和、東浦和の4駅が連続している。


103系(南船橋・1989)(d)

現在海浜幕張までの列車がある京葉線東行直通列車は、開始当初は南船橋行オンリーだった。
クモハの幕は回転中で、レア幕の「船橋法典-西船橋」が出ている。ちょっとタイミングがズレたのが惜しい。このクモハのドアは201系風の窓フレームの目立たないタイプに交換されている。関東の初期車によく見られた。


103系(市川塩浜・1989)(d)

運行番号窓を埋めた部分が明るめに見えるクモハ。


103系(市川塩浜・1989)

ADトレインの写真と同じ編成。武蔵野線は日中1時間5本の12分ヘッドで、内訳は新木場行が2本、南船橋行が3本。これは今もあまり変わっていない。
西船橋に於いて行きたいのと逆方向の列車が来たとき、次を待ったほうがいい場合と、そのまま乗ってスイッチバックしたほうがいい場合(例:東京へ出たいときに南船橋行が来た場合は、南船橋へ出て東京行の列車にのりかえ)とがあり、都度駅や車内のアナウンスで誘導している。


103系(新浦安・1989)

6連オンリーの武蔵野線が1時間に2本しか来ないとなると、舞浜から乗り込むディズニーランド帰りの客で混雑しがち。8連化された現在でもあまり変わらない。
舞浜の東隣の新浦安は京葉線開業前からニュータウンとしての開発が進んでいたが、現在も着々と街の拡大が進み、人口密度が高く税収が豊富な浦安市は全国でも有数の裕福な市となったようだ。

なお、文献を見て思い出したが、新木場までの頃、武蔵野線列車は葛西臨海公園を通過していた。快速の運転開始は東京開業以降で、当時唯一の通過列車がある駅だった。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

1 件のコメント:

ガンバレール9 さんのコメント...

87年~92年当時、新小平最寄りの私学に通うため武蔵野線103系で往復しました。混色は88年始めころまでありました。91年末、新小平駅が水害で水没したとき、通学は大幅な迂回になりたいへんでしたが、復旧作業後、8連になり座りやすかったです。

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