2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2009/11/07

北総鉄道 なつかし写真・1

今回は北総線のなつかし写真を。

北総線は北総開発鉄道として1979(昭和54)年に北初富—小室間が開通したのが始まり。
北初富は新京成の駅を使用し、初富方で複線分岐をして自線の高架(高砂方面延伸用)をくぐってから坂の連絡線を上がって合流するスタイルだった。
電車は新京成松戸まで直通。車両は相互乗り入れで、新京成の旧型車も発展前の千葉ニュータウンの中を走っていた。
のち1984(昭和59)年に住宅・都市整備公団の鉄道として小室—千葉ニュータウン中央間が開業。公団は施設と車両を用意し、北総が第二種として運行を担当した。

1991(平成3)年、西白井—新鎌ヶ谷—京成高砂が開業。京成・都営地下鉄・京急とつながり、北総の線路は6社のバラエティ溢れる車両が走り始めた。
翌年に新京成に新鎌ヶ谷駅が設けられ、新京成との相互乗り入れは連絡線・北総線としての北初富駅とともに廃止となった。

2004(平成16)年、北総開発鉄道は北総鉄道に社名変更。公団線も千葉ニュータウン鉄道となり、通しで「北総・公団線」と呼ばれていた路線名は「北総線」とシンプルになった。


7000形(京成高砂・1991)

高砂開業直前の試運転列車。このときは京成の線路上にこの顔がいることに非常に違和感をもったものだ。
7000形は北総開発鉄道の開業とともに登場した車両で、界磁チョッパのスキンステンレスカー。独特な前面がなによりの特徴だ。


7000形(小室・1992.4.2)

高砂開通後の松戸行。当時の新京成では、北総直通列車分の補填として鎌ヶ谷大仏—京成津田沼間の区間列車を走らせていた。つまり、北初富—鎌ヶ谷大仏間のみ本数が少なかったわけだ。その間唯一の途中駅・初富は不便だったろう。
新京成直通はこの年の7月7日限りで終了した。


新京成8000形(白井・1991)

北総線内で撮った新京成車の唯一の写真。ボケボケ。


7000形(江戸川・1991.12.23)

京成線内を回送で走る7000形。たまたま遭遇した。


7000形(荒川—四ツ木・1992.2.11)

掛け替え前の押上線の鉄橋を渡る。車両と鉄橋の不釣り合いなこと。



7000形(新柴又・1994.10.16)

斬新な顔で登場した7000形は車内もつり革がなかったり固定窓を用いたりと独特を貫いていた。しかし、やはりつり革は必要ということで取り付けられ、高砂開業時に8連化用に増備された中間車・7200(中間4・5両目)は開閉可能な二段窓で登場した。


7000形(西白井・1995.10.10)

西白井の留置線に停まる「コスモス」のヘッドマークをつけた7000形。
西白井には当時車両基地があったが、現在は印西牧の原駅の先に印旛車両基地が設けられ、機能は移転した。


7300形(青砥・1991)

高砂開業記念のヘッドマークをつけた7300形。この開業に備えて京成3700形とともに新製された。
普通の表記には英字が入らないのは京成の各車両と同じだ。


7300形(泉岳寺・1992.2.10)

都営線内押上止まり運用。若気の至りフラッシュ御免…。



7300形(京成高砂・1992.3)

京急空港線羽田駅(現・天空橋)開業までのあいだ、北総→京急の直通列車は川崎行がメイン。現在北総車による北総→京急直通は羽田空港行ばかりで、神奈川県には入らなくなった。


7300形(青砥・1992.8)

青砥駅下りホーム成田方はすばらしいロケーションなのだが、必ず後追いになるのが残念。


7300形(西白井・1994.10.16)

2本目の7318F。7300形は2本の製造にすぎず、現在は京成3700形が1本リースされ7808Fとなり3本の7300形が所属する。


7300形(松飛台・1995.10.10)



7300形(大町・1995.10.10)

羽田行。羽田駅は現在の天空橋駅。羽田駅開業当初、京急空港線は6連までしか入らなかったが、のち8連対応となり7300形も入れるようになった。
羽田開業から8連対応化までの1年半余の間は、日中は羽田行主体のため北総線内に北総車が走れないという異常な状態だった。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2 件のコメント:

風旅記 さんのコメント...

こんばんは。
お写真、楽しませて頂きました。
京成線、北総線方面は土地勘もなくあまり訪ねる機会もないためよく知らなかったのですが、北総線が京成高砂まで繋がったのは平成に入ってからなのですね。千葉ニュータウン建設に沿って郊外へと延びていったのかと思っていました。
ニュータウンの開発のされた地域で開業し、新京成と直通運転していたのですね。新京成の古い吊り掛け車なども走っていたのでしょうか。
成田スカイアクセスと銘打った列車が高速で走り抜ける今、ニュータウンのための鉄道の面影は薄くなり、成田・羽田の空港間連絡の役割が前面に出ている感がありますね。
印旛日本医大から先の新規開業区間の真新しい軌道を見たときには、在来線にもまだまだ高速化の可能性があるのだと実感しました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/?pc

ひみつ さんのコメント...

風旅記さん、コメントありがとうございます。
北総開発鉄道開業時は新京成もつりかけ車があったので、上下2色分け塗装の車両が普通に乗り入れてました。
もっとも私は撮ったことも見たこともないですが、ネット上にはたくさん写真がありますよ。

あと高砂開業当時。新京成800形806Fが北総所属車になったこともありました。
この記事冒頭にあるとおり新京成に新鎌ヶ谷駅がなかったため松戸直通列車も存置され、車両が足りないことから8800形導入で余裕が出た800形を購入したものでした。
見た目はごく一部を除いて変わりなく、営業列車で新鎌ヶ谷以西の北総線の駅に行くことはありませんでした。
用途終了後は新京成に復帰して最後の800形2本のうちの1本として生き残りました。

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