今月、千葉県内ではC61が内房線を走るという一大ハイライトがあった。
その知らせを知ったのは、仲間との旅行を決め、飛行機と宿を取った後。その旅行と運転日が丸被りとなり、諦めた。
…しかし歯がゆい結果に。旅行出発前日にインフルエンザにかかり、旅行は断念。自宅安静となったため、旅行のため確保した有休はそのまんまインフル休暇に転用となった。C61ももちろん撮りに行くことなくただただ寝て過ごした。
小田急以降どこにも撮りに行っていないので、今回から、ずっと手をつけずにいた営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線5000系のなつかし写真をスタート。
生まれてこの方、地元の路線として通塾・通学・通勤や移動で使ってきたのが東西線。フィルムカメラでの東西線の写真は主に通塾・通学に使っていた時代のもの。働きはじめてからは、2009(平成21)年に前のコンデジで再開するまで撮り鉄をしていなかった。
なお営団の慣例で、東西線は中野→西船橋の線が「A線」、西船橋→中野の線が「B線」とされるため、文中でもその表現を使う。地下鉄はどれも都心を貫くだけに「上り」「下り」がはっきりしないためだ。
今回は1988(昭和63)年に撮ったもの。
1988
営団地下鉄(帝都高速度交通営団)5000系電車は1964(昭和39)年に登場した。101系の走る国鉄中央・総武緩行線への直通運転のため、営団初の大型20m・4ドア車となった。
システム的には先に登場した日比谷線向け3000系(18m・3ドア)をベースにしたもので、車体も同じセミステンレス。3000系が無装飾だったのに対し、5000系にはハイライトブルーという水色の帯が先頭と側面の窓下に巻かれ、以降の営団の車両はすべて路線別のラインカラーを巻いて登場している。
5000系(西船橋・1988.1.4)(d)
初めて5000系を撮ったときのものと思われる写真。
パノラミックウィンドウと角丸の顔でまろやかな感じだった3000系に対し、5000系は101系に似た食パン顔と実用的になった。地下鉄車両に必須の非常扉を中央に備え、その両側を若干後退させた3面折妻となっている。
5000系(西船橋・1988.1.17)
撮影当時1編成だけあった、中間に先頭車が挟まった5+5の10連。5000系はもともとこのような正面も細帯のスタイルだったが、のちに正面部分は太帯に変更された。
なおこの先頭車2両は左が5047、右が5848で、5000系先頭車の最終ロット。5000系は千代田線にも投入され、1981(昭和56)年に6000系が出そろったところで東西線に移籍した。この編成は千代田線時代の5+5のままで転入。5000系は常磐線綾瀬—我孫子間も当然走っていたが、小田急への乗り入れは機器の準備をしていないため実現しなかった。
ちなみに、東西線の中野到達後は日比谷線の施設で車両検査を行っていた時代があり、国鉄中央・山手・常磐線を経由して中野〜新宿〜品川〜上野〜北千住〜南千住もしくは竹の塚という、今では考えられないルートで白昼堂々回送が行われたそうだ。
5000系(西船橋・1988)(d)
1964年製の1次車は写真の5801Fから5806Fの6本。東西線最初の開業区間は高田馬場—九段下間で、登場時は需要に合わせて3連だった。
1次車は方向幕の位置が高く、屋根との間が狭い。またラインカラー帯と運行番号窓の幅も狭かったが、後年、増備車両に合わせられている。
東西線独特のサービスである快速列車は、助士側にある専用の種別表示器で「地下鉄快速」の幕を出していた。「地下鉄」が付いているのは、国鉄(→JR)区間では中央線・総武線とも別線を走る快速系統があるため。方向幕の「地下鉄経由」というのも、国鉄区間にて黄色い電車が同じ行先を表示するため。三鷹・荻窪・中野・西船橋・津田沼のコマに「地下鉄経由」が付いていた。荻窪は乗り入れ開始当初にあった行先で、この時代の紺地の幕にも入っていた。
5000系(西船橋・1988.2.21)
5000系の中野方先頭車・クモハ5000形は3連時代からの名残でパンタグラフが載っていた。5000系は国鉄201系・117系と同じ、モハユニットの外側にパンタが付く(搭載はモハ5200形)スタイルだが、このクモハ5000形にも補助的にパンタを載せたため、2両目のモハ5200形とパンタが連続した。
JR301系・5000系(西船橋・1988)(d)
カナリア帯のJR301系と並ぶ。種別表示器は国鉄〜JRの東西線乗り入れ車にも同じものが取り付けられた。
5000系(西船橋・1988)(f)
快速なのに「原木中山」を表示した列車。これは、中学生の私の若気の至り行動の跡。乗務員さんにダメもとで「原木中山」のコマを出せるか訊いたら、なんと出してくれたのだ。すぐ撮って終わらせなきゃと焦ったんだろう、原画も下が切れている。
この当時の幕は手動。私の行動は、友人が「西船橋で武蔵野線の車掌に頼んで『東京』のコマを出してもらった」という話をしていたのに影響されてのこと。昭和63年の話だが、バカなガキによく応じていただいたと思う。当時の乗務員さんに謝りたいところ。
なお、原木中山行という列車は定期で設定されたことはない。原木中山駅西船橋方にはAB線間の渡り線が設けられていて、国鉄がストライキで止まり西船橋駅が使えなくなった際に応じられるようになっていた。現在渡り線は撤去され、西船橋が塞がった場合は妙典駅が運行区間東端となる。
今20代より若い世代には信じられないかもしれないが、かつては春闘で都心の鉄道が初発から止まることは恒例で、朝のニュースで列車の来ない線路上を歩いて職場へ向かう人々の様子を流すのも年中行事の一つだった。大体の会社が早い時間帯に収束したが、京成はいつも遅かった記憶がある。
8000系・5000系(西船橋・1988)(f)
こちらが本来の行き先のようだ。隣の8000系は5000系7連の10連化による車両不足を補う助っ人で、本来の半蔵門線に投入される前にわざわざ運転台をツーハンドルに替えるなどの仕様変更をして3編成が東西線に送り込まれた。
5000系(西船橋・1988)
これまた若気の至りで思いっきりフラッシュを焚いて撮ってる1枚。後ろだけど、ごめんなさいm(_ _)m。
当時、19時すぎになるとけっこうな頻度で西船橋発東陽町行の各停が設定されていたイメージがある。先ほどの「原木中山」もそうだが、方向幕で中央・総武緩行線の列車が通らない駅のコマは「地下鉄経由」が付加されておらず、漢字も大きい。
5000系・8000系(原木中山・1988.10.2)
紫のアルミカー8000系と水色のスキンステンレスカー5000系が原木中山駅で並んだ。
わかっていても不思議な光景だった。
5000系(西船橋・1988.10.2)
7連の各駅停車。今の激混みの東西線で7連非冷房が来るのは考え難いが、当時のラッシュはどうだったかというと、今と何にも変わらない。
5000系(西船橋・1988.12.1)(d)
これは5番線折り返しの快速三鷹行10連。
8000系・5000系(西船橋・1988.12.4)(d)
5000系は増備中間車に戸袋窓なしで新製されたものがあるが、写真の車両は更新によって戸袋窓が廃止されたもの。室内はクリーム系から白系のデコラに張り替わり、ドアは室内側も無塗装ステンレス地のものに交換されている。側窓と戸袋の境目には溶接痕が見られた。
05系・5000系(西船橋・1988)
1988(昭和63)年には05系が投入され、世代交代が始まった。…しかし、この05系初期車すら現在・2012(平成24)年の東西線上では見られなくなってしまった。
5000系・05系(西船橋・1988)(d)
総武快速上り線を113系が走り抜ける。西船橋構内は総武快速線の「ドドン・ドドン…」というジョイント音が響き渡る場所だった。
5000系(原木中山・1988)
運行番号のSが白文字の列車が原木中山駅2番線に入線するシーン。白Sは7連運用を示した。
5000系・8000系(原木中山・1988)
5000系非冷房7連各停を冷房車8000系10連快速が追い抜くという、格差が見える風景。
原木中山駅は改札コンコースが中野方に寄っているため、7連の停車位置も中野方いっぱい。西船橋方は3両分たっぷりホームが余った。
5000系(船橋・1988)
珍しくノンフラッシュで撮ったであろう1枚。この夜の船橋の写真は1枚だけ。理由はまったく覚えていない。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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