2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2010/11/12

ひたち なつかし写真

常磐線。その名は常陸(ひたち)と磐城(いわき)を指す。
だから、取手までの快速・緩行などは常磐線たり得ない。取手は茨城県ではあるが、下総の中なのだ。

…なんてナンセンスな話は本気ではしていないが、常磐線の花形列車といえば特急「ひたち」。
東北連絡の任こそ新幹線に譲っているが、常磐線沿線への速達便は特急の天下。現在は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」の2系統体制だが、そもそもは「ひたち」オンリーだった。


ボンネット天国

特急「ひたち」は1969(昭和44)年10月、上野—平(たいら:現・いわき)間の1往復の特急として登場した。すでに常磐線は全線電化されていたが、車両はキハ81系。同時に登場した特急「いなほ」(上野—秋田)の間合い運用という形だった。
なお「ひたち」の愛称に関しては451系の準急・急行で1963(昭和38)年〜1968(昭和43)年の5年間使われていた。


485系特急「ひたち」(上野・1988)

ひたちが電車化されたのは1972(昭和47)年3月。もちろん交直両用車が必要で、485系(483系含む)が投入された。
1985(昭和60)年に九州の485系の車両需給の都合からひたちはボンネット車先頭の11連に統一(短編成の場合ボンネット車は定員が少なく効率が悪い)。中電が白地青帯化された一方で特急は若干古くさくなったわけだ。


485系特急「ひたち」(留置)(尾久・1988.8.12)(d)

ところが1986(昭和61)年には前年の23.5往復から26.5往復に増便。非貫通車が再登場し、ボンネットオンリーの時代はすぐに終わった。編成は2両減車の9連となった。


485系特急「ひたち」(上野・1988.12.25)(d)

ひたちの下り列車は上野始発で、下り終着・上り始発駅は水戸・勝田・日立・高萩・平・原ノ町・相馬・仙台と多岐に渡った。相馬まで行くなら仙台まで行っちゃえばいいのに、とも思ったり。
なお当時は1号のみ平→仙台の運転で、仙台発着はこれを合わせて3往復(他はすべて上野発着)だった。


485系特急「ひたち」(上野・1989.1.22)

その本数の多さから、こんな光景も当たり前だった。左右の車両でタイフォンの位置が違う。調べると、そもそも車体側にタイフォンを付けて新製されたのはクハ481-100番台のうち最初の101を除く102〜126だが、写真当時はすべてひたち運用に縁のない所に移籍していたようだ。写真右のクハは仙台運転所所属時代にスカートから車体にタイフォン移設改造をされたクハ481-0番台。



485系特急「ひたち」(鶯谷・1989)

JNRマークのなくなったほっぺたが寂しい。タイフォンについては位置のほかシャッター・スリット・蓋なしといろいろあるようだ。
写真の1989(平成元)年3月に新鋭651系の特急「スーパーひたち」が登場。1号〜14号の7往復が登場し、ひたちは101〜147号の23往復+下り2本と、号数が100番台に移行した。両系統で30往復+下り2本という特急天下になった。


485系特急「ひたち」(上野・1990)

タイフォンカバーがないクハ。となりにはスエ78が見えるが、その列車はまた別の機会に。



485系特急「ひたち」(上野・1990.5.26)

1990(平成2)年3月の改正でスーパーひたちは倍以上に増便され、ひたちは編成をグリーン車付9連→モノクラス7連に短縮し14往復体制となった。このとき上野方先頭車に多く投入されたのが写真のクハ481-1100番台。
サロ481-1000番台もしくは1500番台に新造の非貫通形運転台を取り付けた先頭車化&格下げ改造車で、側面はグリーン車時代の小窓のままのために座席と窓の位置が合わなかった。タイフォン部分が独特。出番がなくなった比較的車齢の若いサロをコンバートして、高齢のボンネット車を置き換えた形だ。
種車のうちサロ481-1500番台は、181系特急「とき」の末期、モロ180・181に代わるグリーン車としてのちの485系転用を考慮して挿入されたサロ181-1100番台が元。181系より車高が高く、とき時代の編成はブサイクだった。



485系特急「ひたち」(上野・1990.5.26)

189系特急「あさま」との並び。485系と189系では同じ非貫通形でも正面の帯のラインが違うのがわかる。485系は天のラインが水平、189系は側面へ向かって上がっている。
2枚は同じ列車。7連化後は上り方が非貫通1100番台、下り方はボンネット0番台という編成が多かった。歴史が垣間見える混沌としたホーム構造にはボンネット車が似合う。写真のボンネットクハは向日町運転所所属時代にヘッドマークが可動式になっていた車両で、故障時の手動回転操作用穴のフタがマーク右横にある。


485系特急「ひたち」(三河島・1991)

夕日を浴びて銀色のパーツが輝く。

この後の485系のひたちは「あいづ」との共通運用化で1往復だけグリーン車が復活(1992年7月〜1993年11月)したり、7連2本併結運転(1993年12月〜)の列車が登場したり、明らかに似合っていない白地+オリーブ帯のひたち色への塗り替えなどいろいろと動きがあった。
併結運転に関しては当然これまでの写真の状態ではできないので、ボンネット車は連結器カバーをはずすどころかスカートが大きく欠き取られて表情が変わった。
1998(平成10)年12月のダイヤ改正で485系のひたちは全廃。前年登場のE653系特急「フレッシュひたち」とは1年ちょっとの競演だった。


にせひたち

すでに過去の記事に載せたものだが、再掲。



485系「水戸梅林号」(新宿・1988)


485系「水戸梅林号」(取手・1988)

特急「ひたち」用485系を用いた新宿発着の多客臨「水戸梅林号」。マークはひたちベースだが、花の配置がちがう。この編成の腰部のヘッドライトは銀色のフチになっている。



485系団臨(南船橋・1990.7)(再掲)

団臨に使われたひたち用485系が京葉線の南船橋駅を通過。ボンネット車に関してはマークを外すこともなくそのまんまの姿で運行されていた。
上野方のクハが蘇我方にあるのは違和感。この先二俣支線へ行くのか、舞浜へ拾いに行くのかは今になっては憶えていないが、わざわざ勝田の485系を使っているということは南流山から土浦方面へ行くと思われる。そうすると、この列車は東京でスイッチバック→舞浜で客を拾う→高谷支線→南流山でスイッチバック→小金支線→土浦方面と進めば写真の非貫通クハ1100番台が正しい向きに戻るわけだ。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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