2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2024/03/04

カラフルトレインズ・8/JR165系

東海顔で続けて今回は直流急行形電車・165系。
新性能電車での急行形のはしりは153系で、東海道線の80系電車の立場を引き継いだ車両。
パノラミックウィンドウの新しい顔はのちに高運転台にモデルチェンジしたものも含め、「東海顔」として近郊・急行形の多くの系列で引き継がれた。


165系

165系は153系をベースに出力アップ・勾配対策化・寒冷地対応化したもので、111系に対する115系と同じスタンス。115系と同時期に登場した。
153系は電動ユニットをモハ+モハとしたのに対し、165系の基本はクモハ165+モハ164(パンタ付)で、最短3両編成が組める形とされた。急行全盛期は気動車のように先頭車が多く入る長編成が組まれることもあった。
東北・上越新幹線の開業や特急列車への格上げ統合が進んだことで電車急行列車が減り、JR化時点ではほとんどが急行列車には就けずローカル・波動用に転用されていた。


165系急行「東海」(東京・1987.11.8)(d)

このシリーズ頻出の、私が始めて撮り鉄をした日の1枚。この時点で、関東圏において165系の定期急行列車はこの急行「東海」のみであった。
車両は大垣電車区の所属で、中間にもクハが1両入る6M5Tの11両編成。モハユニット3組はパンタなしのモハ165が組み込まれていた。モハ165は21両しか新製されなかった希少車。


165系急行「東海」(品川・1989)

「東海」の編成にはグリーン車が2両入っていた。写真はともにサロ165だが、奥は原型の一段下降窓、手前は改造田窓(下段上昇・上段下降)と違いがある。
見た目が優雅で車内からの展望がよいのは当然原型のほうだが、当時の国鉄の一段下降窓は水はけ対策が甘く、下降ガラスが落ちる袋(戸だと戸袋だけど、何て言うのでしょ?)への雨水の浸入で車体の腐食が早かった。田窓はその対策で袋をなくすため致し方なく改造されたのだ。
田窓化後、他系列へ改造・編入された車両もある(クロ455-600番台サロ110-400番台)。


165系急行「東海」(東京・1990)

「東海」用の165系は1989(平成元)年3月に大垣から静岡へ異動した。
1枚目同様、正面に行先が併記されているのがJR東海らしいところだが、当時の私は国鉄時代の 急 行 で見たかったなぁと考えていた。
急行「東海」は1996(平成8)年3月改正で373系の特急「東海」に置き替えられて廃止となった。


165系急行「富士川」(沼津・1991)

急行「富士川」は静岡—甲府間を東海道線・身延線で結ぶのが基本の列車。
写真当時は5往復のうち1往復のみ、両線の接続駅の富士から静岡とは反対側の三島を結ぶ列車があり、小田急直通特急「あさぎり」の沼津行が始まったときに撮りに行きに遭遇したものである。編成はこちらもモハ165を使ったもので、静岡の4連であった。
急行「富士川」は「東海」より半年早く373系特急「ふじかわ」に置き替えられた。
東海道線 なつかし写真・3


165系(塩尻・1989.9.16)

JR東海中央西線〜JR東日本篠ノ井線の普通列車に運用された神領のT編成。
表示幕の通り、基本的に中津川—松本間を受け持ったが、一部神領への行き来も兼ねて名古屋へ顔を出す便もあったそうだ。
T編成は関西線名古屋—亀山間でも翌年まで運用された。
1996(平成8)年7月のダイヤ改正で塩尻—中津川間のワンマン化が実施され、313系に置き替えられている。
89.9.16 中央線 なつかし写真・2


165系快速「鴨川ビーチ」(西船橋・1988)(d)

房総地区の165系は1969(昭和44)年の房総西線(現・内房線)の木更津—千倉間電化の際に新製投入された。のち各路線の電化が進み、153系も転入加勢のうえで気動車急行を順次置き替えていった。
しかし1982(昭和57)年11月改正で房総急行は全廃。私が小2のときで、たまに乗る総武線で見かけた急行は、いつの間にか見られなくなっていた。
急行廃止後は165系3連4本のみ波動用で残り、JR移行後も団臨や多客臨でたまに走っていた。
写真は中2の夏休みに多客臨「鴨川ビーチ」を地元の西船橋で撮ったもの。撮り鉄として首も据わっておらず、アングルもフォーカスもむちゃくちゃ。今みたいにデジカメで連写し放題だったらもう少しマトモな写真が撮れただろうに。


165系快速「鴨川ビーチ」(国分寺・1989)

翌年、停車中でフォーカスはバッチリ撮れた「鴨川ビーチ」だが、何で縦アンだったのかは今では理由が判らない。そもそも何で国分寺で撮ってたのかも憶えていない。黄色い札のR編成は幕張車。
HMは前年とは違う物のようだ。前年の写真はHMの明るい色が飛んでしまっているが、柄は“鴨の下のヨット"から“川の下のパラソル"に変わっているのがわかる。


165系「ハイランドスケート号」(下総中山・1989)

これまた粗い1枚。千葉—河口湖間の「ハイランドスケート号」で、HMをクッキリ撮れている写真がないのが悔しい。
調べるとこの列車は国鉄時代から運行。富士急ハイランドのスケート場のオールナイト営業に合わせて、往路は夜千葉発・河口湖に深夜着、復路は昼に河口湖発・夕方千葉着というものだったそうだ。どうりで撮ったものが東行きばっかりなわけだ。
旅行商品で飛び乗りはできない団臨。国鉄時代は逆台形のHMだったようだ。


165系快速「奥多摩号」(市川・1989)

おそらく千葉—奥多摩間で運行の臨時快速「奥多摩号」。「鴨川ビーチ」「ハイランドスケート号」と同じ、房総急行が使った六角形HMのフォーマットを利用している。
ネットで調べてもこの列車の情報はあまり出てこない。のち“ホリデー快速”を冠したと思うが、写真のときはまだJR東でホリデー快速呼ばわり自体が存在しなかった。
翌年ではHMがなくがっかりしたことも。明るくないデカ目白熱灯ヘッドライトは遠目に不気味だったな。
房総各線 なつかし写真・2


165系「秩父夜まつり」(上野・1989)

上野駅16番線に停まる「秩父夜まつり3号」。文字通り秩父夜祭開催に合わせた臨時の秩父鉄道直通列車。JR移行時点で定期列車の秩鉄乗り入れはなくなっていただけに、貴重な列車だった。
快速ではなく、途中通過もせず東北・高崎線内をコツコツ停まっていったのも面白い。


165系(上野・1988)

こちらは上野駅高架ホームの165系。団臨と思われるが、詳細は当時より不明。古レールを用いた柱と国鉄形車両の組合せがステキだ。
上野や品川はフラっと行ってもこういう列車に会えた、楽しい時代だ。


165系(尾久・1988.8.12)(d)

上野—黒磯間の多客臨急行「くろいそ」に就くため尾久に現れた165系。
停車駅は特急「新特急なすの」とほとんど変わらなかった。翌年は快速で運転された。


165系(大宮・1992)

デカ目湘南色で残っていた新前橋のS55。
当時新前橋の165系は後述のモントレー化が進み、最終的に編成番号がS1からS12までに整理されていったそうだが、このS55がどれになったか、もしくはならずに去ったのかは、調べてもわからなかった。
宇都宮・高崎線115系の側面方向幕準備が済んだ1992(平成4)年の撮影で間違いないのだが。


165系(東京・1991)

TDL団臨で京葉線に入線し、東京駅京葉地下ホームに来た新前橋のS4。舞浜では折返しできないので、折返すためだけで東京駅まで来るのだ。
1989(平成元)年より新前橋の165系は更新工事を行い、施工された車両はこの「モントレー色」となった。
ここでのモントレーはフランス語で「三つの名峰」という意味。群馬での自動車の全日本ラリーの大会名に用いられたもので、上毛三山を指している。
まぁそれとこの配色がつながるかというと、どうなのか。単純にカラーリングのデザインとしては私は好きである。黒Hゴムが引き締め効果を生んでいる。


165系(大宮・1995.10.30)

113系の記事でも登場した、鉄仮面補強車。S11。
スカ色の横1本帯と異なり、腰部の帯を延ばせることからこのカラー処理になったが、ここまでやるんなら白地塗りもやってよかったのでは?と思う。ネタとしては面白かったけど。


165系快速「フェアーウェイ」(大宮・1988)

JR移行後に登場した快速「ムーンライト」用改造編成。
「ムーンライト」は高速バスに対抗した新宿—新潟—村上間の夜行快速列車。のち大垣夜行に「ムーンライトながら」の愛称が付いたことで、「ムーンライトえちご」に改称されている。
車内はグリーン車の廃車発生品のリクライニングシートを装備し、外装は編成毎に異なる色調の凝ったカラーリングとなった。
編成は上沼垂のM1〜M3の3本で、写真の編成は茶系のM2。


165系快速「フェアーウェイ」(大宮・1988.8.12)

ムーンライト用M3は赤系。このM3のみ地色が赤系から逸脱したアイボリーになっている。
残念ながら緑系のM1は撮れていない(赤・緑で販売されたKATOのNゲージの6両セットは持ってるな)のだが、M1はM2同様テーマカラーを踏まえた薄緑が地色になっている。
村上から朝上京したムーンライト車は、間合い運用として新宿—黒磯間の快速「フェアーウェイ」に使用された。名前の通り、東北線沿線のゴルフ場へ向かう客を対象とした列車。
間合い運用といっても、黒磯まではなかなかの距離で、165系だと老体に鞭打ち感が否めない。
宇都宮・高崎線の急行形列車


165系(船橋法典・1994.3.26)

ムーンライト編成は追加が続く。
4本目の編成はそれまでと異なり側窓回り赤、その上下に緑の細帯が入ったシンプルな塗色となったが、その後の車両は写真のレモンカラー(私が勝手に呼んでるだけ)で登場。4本目もこの塗色に変更された。
結局レモンカラーが6本となり、M1〜M3は急行「赤倉」用に転用、窓回りなどに深緑を巻いた赤倉色に変更された(赤倉で緑ってヘンだね)。
写真はTDL団臨で武蔵野線に現れたときのもの。後ろ3両がその赤倉色なのだが、後追いは撮れていない。


165系「なのはな」(品川・1988.4.3)(d)

国鉄時代の1985(昭和60)年、千葉鉄道管理局が初めて電車改造お座敷車両を用意した。
当時は客車を中心としたお座敷車両が各地で活躍していたが、管内の直流電化率を踏まえ、幕張の波動用165系を活用することとなった。
3連2本が改造され、S1・S2編成となった。千葉県の県花である菜の花を愛称にした。車両は全グリーン車となっている。


165系「なのはな」(大宮・1995.10.30)

「なのはな」も前面強化で鉄仮面化され、デカ目はシールドビームに変更された。その後改めて通常塗装が施された。
「なのはな」は1998(平成10)年に役目を485系「ニューなのはな」に引き継いで引退した。両者が被って使用された時期も少しあるようだ。
88.4 品川にジョイトレ集合


165系「パノラマエクスプレスアルプス」(新宿・1988)(d)

「パノラマエクスプレスアルプス」は国鉄最末期に165系3連2本を改造し登場。
名鉄パノラマカーや小田急ロマンスカーのようなその顔に驚かされた。側面も車窓展望を意識した大型の固定窓となっている。
「なのはな」が3連2本が同じ方向を向いて6両編成を組むのに対し、こちらは展望車を2両ともクロとし、2本がクモロ同士でつながる前後線対称の6両編成。クロは先頭部だけでなく車体をまるまる新製している。
車内はクロにラウンジ席がある以外は一般的な開放型座席で、団臨だけでなく多客臨でも使いやすいタイプだ。
一時は167系元メルヘン車を同じ塗装にして中間に挿入し、急行「しんせん・やまなし」として10両編成で運行された時期もある。
JR引退後は富士急に譲渡され、「フジサン特急」として第3の人生を歩んだ。3連2本で別々に用いられ、JR時代の活用が少なかったクモロが先頭に出て活躍した。
ジョイフルトレイン なつかし写真・7 JR東の電車


165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)

「ゆうゆう東海」は1989(平成元)年にJR東海に登場したジョイトレ。
3連で普通車扱いだが、車内はリクライニングシートが装備された。運転台背後には前面展望ができるラウンジ席、中間車にはカラオケなどで使えるイベントステージが設けられた。
デビューは多客臨快速で、団臨のほかホームライナーや急行「富士川」の代走運用にも就いた。
種車が古かったことから、登場から10年ちょっとで廃車となった。
ジョイフルトレイン なつかし写真・6 サザンクロス上京と東海車


165系快速「シャトルマイハマ」(西船橋・1990.7.1)

1990(平成2)年3月の京葉線東京延伸時、TDLの最寄り駅・舞浜へのアクセス列車として登場したのが快速「シャトルマイハマ」。運行は東京—西船橋間で、途中停車駅は舞浜のみであった。
専用車として改造されたのが、前出の「鴨川ビーチ」の写真の165系マリR1である。車内はまったく原型をとどめていない(下記リンク記事参照)。
運用開始当初は認知度が低く利用が少ないのを実見したが、定番化するとやはり3連では厳しくなったようで、本来の目的での活躍は数年だった。
1995(平成7)年に長野への貸出を経て「α(アルファ)」に改称されて上沼垂へ移り、波動用となった。
京葉線 過去の臨時列車

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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