2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2010/12/13

都営三田線・大江戸線 なつかし写真

12月の最初の記事。
今月に入ってカメラが海外へ旅立っていたため、近所を走る「しもうさ号」などはまだ撮っていない。

唐突だが、今回は都営地下鉄のうちまだ記事に出していない都営三田線・都営大江戸線のなつかし写真。


都営三田線

都営三田線は東京都交通局の2番目の地下鉄路線。1968(昭和43)年の開業時は路線愛称はなく、都市交通審議会で付番された番号を用いて「都営6号線」と呼ばれていた。
ちなみに番号は営団・都営が入り乱れていて、1:都営浅草線、2:日比谷線、3:銀座線、4:丸ノ内線、5:東西線、7:南北線、8:有楽町線、9:千代田線、10:都営新宿線、11:半蔵門線、12:都営大江戸線、13:副都心線である。
1号線が浅草線・6号線が三田線という愛称になったのは私が幼児だった頃の1978(昭和53)年7月で、その後も接続する営団の駅などでは「1号線」・「6号線」という表記が長い間そのまま残ってたり、愛称に号数を()書きで併記するようなものもあったのを憶えている。ちなみに新宿線は浅草・三田線の愛称制定のあとの12月にはじめから「新宿線」として新規開業している。



6000形(西高島平・1993.3.8)

北の終点・西高島平駅で折り返し待ちの6000形。営団東西線5000系と似た点も多い、抵抗制御のセミステンレス車。
浅草線が京急規格の標準軌1435mm・18m級3ドア車となった(京成は都営・京急との相互乗り入れのため偏軌1372mmから全線改軌した)のに対し、三田線は狭軌1067mm・20m級4ドア車とされた。これは東武東上線との相互乗り入れが計画されていたため。高運転台の顔は東武8000系に似ている。
ところが、東上線は有楽町線への直通に計画を変更。また南側も東急池上線へつなぐ予定だったのが取りやめになった。ほかにも横浜の港北ニュータウンへの延伸や、西高島平から大宮方面への延伸計画もあったが実現しなかった。港北ニュータウンには計画の跡が見られる場所もあるようだ。
三田線は現在こそ東急目黒線との相互乗り入れを行い車両のバリエーションが増えたものの、写真当時は三田—西高島平間の孤立した線内で6000形オンリーという味気ない路線だった。



6000形(蓮根・1993.3.8)

志村三丁目—西高島平間は高架区間。その中で志村三丁目〜蓮根(はすね)〜西台の3駅の間はS字カーブを描き、蓮根駅はその中心にある。
6000形は当初赤帯が側面に入るのみのスタイルだった。1970(昭和45)年にラインカラーが制定されて三田線は青となり、帯ものちに青に変更された。1988(昭和63)年から正面ライトまわりにも青帯が追加されて表情が変わった(顔の遍歴の写真は東京都交通局の都営地下鉄の車両ギャラリーで観ることができる)。
写真の6071Fは1次車4両+追加の2次車2両という6連。1次車はモニタ屋根が薄めで、3・4両目に入った2次車との高さやスリット構造の違いがわかる。



6000形(蓮根・1993.3.8)

これまた東西線5000系と同じく、分散形での冷房改造を施した編成。モニタ屋根が高くなった2次車以降は冷改を想定しつつ製作された。また、最終の4次車2編成は集中形での冷房準備車として造られたため、その通り集中形で冷改された。側面も戸袋窓なし・方向幕準備など、1〜3次車とは趣を異にしている。残念ながら4次車の写真は撮れていない。三田線は2駅だけだが通学で使っていたので4次車には何度も乗ってはいるのだが。
車号は百位と十位が編成番号で、一位が位置となるが、8連が前提になっているため、一位3・4が欠番になっている。三田線は現在でも6連のままだ。



6000形(蓮根・1993.3.8)

この蓮根の西高島平方を見ると京葉線の潮見の東京方を思い出す。
6000形は東西線5000系に比べると、コルゲートの断面形状、ドア窓の角張り方や屋根構造から、ゴツゴツした感じがする。いっぽうで、5000系にはない種別窓や急行灯が付いている。5000系にこそ必要だった装備だが、6000形が走った時代は各駅停車しかなかった。なお移籍先の秩父鉄道で、種別幕は「ワンマン」表示用に活かされている。


6000形(蓮根・1993.3.8)

蓮根は島式ホーム1面の駅。車庫につながる高島平は島式2面4線で、のこりの高架4駅はすべて対向式。この蓮根は独特な存在だ



6000形(蓮根・1995)

6000形の最後の顔がこの「いちょうマーク付」の姿。
6000形は6300形の投入によりまず非冷房車が廃車となり、続いて冷房車も1999(平成11)年までに全廃となった。
その後、一部の車両は秩父鉄道、熊本電鉄、そしてインドネシアでも第二の人生を送っている。秩父では千減って5000系に、熊本では塗色変更で赤帯になった車両もある。インドネシアでは完全な別人ヅラの先頭車化改造車が登場したり、三田線で実現しなかった8連の列車もある。


6300形(新高島平・1995)

6000形の置き換えと東急乗り入れ用として1993(平成5)年に登場したのが6300形。浅草線の5300形に続くVVVFインバータ制御の形式で、車体はJR209系と同じ、コルゲートのないステンレスボディとなった。
車内は基本的にロングシートだが、各車片側車端部にボックスシートを設置した。これはのちに同じ線路を走る営団南北線9000系や、三田線・南北線への乗り入れ車になる予定だった東急9000系と同じスタイルだ。
ただ、乗り降りの激しい東京の地下鉄にそぐわないボックスシートが増備途上で廃止されたのは当初から予想できたことで、南北線9000系も同じ道をたどっている。
なお、写真の時代の6300形はまだ正面にスモークフィルムが貼られていないため、現在よりもスッキリして見える。それと私個人の感覚では、正面の赤帯より上の青く塗られている部分は黒にしたほうがよかったように思う。


都営大江戸線

都営大江戸線は日本初の環状地下鉄路線。…と言っても完全な環状ではなく、都庁前駅を境に環状部と放射部に分かれ、環状部はしずく形となっているため、同じく環状地下鉄である名古屋市営名城線のように連続周回はできない。運行は都庁前〜環状部〜都庁前〜放射部〜光が丘の往復が基本で、「6の字運転」となっている。
若い路線で、他路線やさまざまな地下埋設物を避けるために大深度区間もある。その深さと想定される輸送量を考慮し、建設費を抑えられる小断面・小型車両の規格となった。
軌間は標準軌1435mmで、車両は軌道にリアクションプレートを設けたリニアモーター駆動として低床化、車体も上半分を絞って小断面化を徹底している。


12-000形(光が丘・1991.12)

大江戸線の最初の開業区間は練馬—光が丘間で、1991(平成3)年12月10日開業。光が丘団地直結の鉄道路線としてのスタートだった。
写真はその開業記念のHMのついたものなのだが、日付のメモが残っていない。今となっては開業当日かどうか記憶がないが、それに近い日で、12月であるのは間違いない。
HMをよーく見るとわかるが、この時は「都営12号線」という呼称で開業。HMは「'91.12.10」と「都営12号線」の“12"を大きくして被らせたデザインだ。
ということで、都営地下鉄4線のうち、開業時に路線名が号数でなかったのは新宿線だけなのだ。


12-000形(光が丘・1991.12)

12-000形は浅草線5300形同様、アルミ車ながらアイボリー地に塗装した姿で登場した。ラインカラーが似ていることもあり、両者の雰囲気はなんとなく似ている。
前述のとおり上部を絞った車体は側板がくの字に折れており、座席に座った際に向かいの窓に映る風景はちょっと違和感がある。
12号線は1997(平成9)年12月に新宿まで延伸。その前の5月から12-000形3次車が無塗装のアルミ地肌で登場し、顔も多少変わった。同時に全編成が6連→8連化された。
2000(平成12)年4月に国立競技場まで延伸した際にようやく「都営大江戸線」という愛称が付いた。はじめは公募により選ばれた「ゆめもぐら」の愛称がつく予定だったが、石原慎太郎都知事のひと声でゆめもぐらは取りやめとなったいきさつは有名だ。同年12月に環状部の残りが開業し、現在の「6の字」の状態ができあがった。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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