2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2010/02/15

東急 なつかし写真・1

当ブログの流れとして、新しく撮りに行った場所の古い写真が手元にある場合は、その記事の後に出すようにしてきた。
今回は順番が中央線201系より後になったが、1月30日に訪れた東急のなつかし写真をアップ。

まずは多摩川駅の過去の風景。



初代3000系(多摩川園・1989.3.18)

3面4線の「多摩川園」駅での光景。駅名もホーム配置も現在と違うわけだ。
そもそもは近くにあった遊園地の名をとって多摩川園駅となっていたが、この頃はすでになくなっていた。
目蒲線が目黒線・東横線・東急多摩川線に分割されると同時に、現状に合わせた「多摩川」駅に改称された。
同じ日、「二子玉川園」駅も同様の理由で「二子玉川」駅に改称。また東急多摩川線との混同を避けるため、渋谷—二子玉川園間の新玉川線も田園都市線に吸収された。

「目蒲線」と言われると思い浮かんだのがこの緑色の電車。
さまざまな形を持つこのつりかけ車群は3000代の形式を持ち、「3000系」と総称されていた。
現在は目黒線用の3000系電車が存在するので、しっくりこないが便宜上「初代3000系」とする。

コンパクトカメラの日付つき写真が活きる例で、この1989(平成元)年3月18日は初代3000系現役最後の日だ。目蒲線と池上線で多くの車両が頑張っていた。


初代3000系(多摩川園・1989.3.18)

昭和が終わり新時代に突入したこの頃、関東の他の大手私鉄において鉄道線の現役つりかけ車は東武3000・5000系列、5700系、西武351系くらいだったと思う。
東武の3000・5000系列は8000系レベルの車体を新製したもの、5700系は動態保存的な波動用、西武351系は多摩湖線国分寺駅ホームの有効長の問題で仕方なく残っていた。
都内の区部 …しかも田園調布なんかをこの車体も古い電車が当たり前のようにたくさん走っていたのは奇跡に近かった。




初代3000系(多摩川園・1989.3.18)

こちらの紺と黄色は引退が決定したためにまとったリバイバルカラー。
いつの時代にもこういうことは行われていた。1編成にとどまらず何本も存在した。






初代3000系(多摩川園・1989)

こちらは3月18日より前に撮ったものだが、同じ3月かもしれない、近い日のものだ。どれもアルミサッシ化が行われているが、やはり張り上げ屋根でない後者3つのほうが古くさくてよい。
5枚目には、日比谷線から来た初代7000系が東横線下りホームに停まっているのも見える。


7200系(多摩川園・1989)

7200系は初代7000系が発展したような車両で、天井が高くなり側面は一段下降窓、そして何と言っても先頭の「ダイヤモンドカット」と呼ばれるデザインが特徴。
しかし、貫通扉は開け閉めのことを考えて平らで、なぜ貫通先頭車なのにこのような「ほっぺた」にしたのかわからない。
JRの485系で併結用に貫通扉が追加された先頭車のように、「改造車」っぽい印象を受ける。
私は当時認識していなかったが、目蒲線は初代3000系の撤退後初代7000系や7700系で4連化が行われることになっていて、3連の7200系はそれ以降池上線に集結したんだそう。
のち4連化されてまた目蒲線に帰ることになるのだが、このときは初代3000系とともに「もうすぐさよなら」状態だったのだ。


初代7000系(多摩川園・1989)

東横線に目を移す。初代7000系は日比谷線直通規格の18m・3ドア車。この初代7000系をVVVF化・冷改したのが7700系で、正面の赤帯はライトケースの上までの細いものになる。
8500系新製時に初めて入ったステンレス車正面の赤帯は、のちに既存のノーメイクのステンレス車にも施された。しかし、8000系以外は似合っていなかった。


8000系(多摩川園・1989)

こちらはその赤帯が似合う8000系。東急初の20m車で、この車両の登場以降、東横線は20m・4ドア車と18m・3ドア車の混在が現在まで続いている。
日比谷線が18m車になったのは前にも書いたようにその線形も理由だが、当時20m車がなかった東急が18m車にこだわったとの話もあるようだ。
東武は当初から20m車がよかったようだが、東急はこの8000系の開発でそのスタンスを翻したことにもなる。
写真は東横線の新丸子方。現在は複々線化されてガラリと風景が変わってしまった。


8000系(多摩川園・1989.3.18)

中間に軽量ステンレス車体の試作車両を組み込んだ編成。
コルゲート仕上げからビード仕上げに変わり、断面もわずかに曲線を描いて異彩を放っていた。この試作車が8090系へ発展した。
8000系はVVVF化で若返った旧7000・7200系よりも先に東急線内から姿を消し、一部は伊豆急で余生を送っている。


8590系(多摩川園・1989.3.18)

8590系は非貫通で造られた8090系の先頭車を貫通形に変更して製造されたもの。
8500系・8090系とともに、本来は8000系の1グループであるが、見た目だけでもこれだけ違うため別形式のように区分けされて呼ばれている。
貫通扉は当時はまだ存在していなかったみなとみらい線(全線地下線)への将来の乗り入れを想定してのものだ。


9000系「TOQ-BOX」(多摩川園・1989)

東急初の新製VVVF車・9000系。今でこそ全国で見られるVVVF車だが、当時はまだまだ数が少なかった。
9000系の変調音は未来的・宇宙的ないかにも新技術という感じで、横を走る初代3000系のつりかけ音とのコラボは面白かった。
写真の9006F「TOQ-BOX」は1月30日の記事に出てきたラッパのステッカーの編成の昔の姿だ。


9000系(多摩川園・1989.3.18)

当時の東横線は各停と急行のみでシンプルだった。急行は多摩川園を通過していた。


9000系(多摩川園・1990)

9000系同士のすれ違い。
今はなき桜木町行の9002Fは現在5連に短縮され、正面帯もグラデーションタイプに貼り替えられて大井町線で働いている。


営団3000系(多摩川園・1989)

営団地下鉄日比谷線の「マッコウクジラ」こと3000系。現在は一部車両が長野電鉄で余生を送っている。
同じステンレス車体でも武骨な7000系に比べ、優雅なスタイルだ。
丸ノ内線300〜900形とともに「オシャレな東京の車両」という感じ。
日比谷線の初代車両である営団3000系・東武2000系・東急7000系はすべて非冷房のまま日比谷線での活躍を終え、7000系のみ7700系に改造の上で冷改された。


営団3000系(多摩川園・1990)

写真だけ見ると優雅にカーブを進んできているように見えるが、カーブでカントがついているため、車体が傾いたままで停まる。朝のラッシュ時などは左側の上りホームは乗り降りが大変だったようだ。
代官山の駅でも同じく上り線がインカーブで車体が傾く。渋谷の目前ということでラッシュのピーク時は乗客がドアに押しつけられて開扉できないという現象もあり、テレビでも今でいう「珍百景」的にたびたび紹介された。


営団03系(多摩川園・1989)

03系は3000系置き換え用に登場した新形式。当時は最初の編成が登場してからまだ1年経っていない頃だ。
この新丸子方の急カーブはズームが70mmまでだった私のカメラでもこうしていいアングルで撮れるので好きだった。後追いだからとかは関係ない。


営団03系(多摩川園・1989.3.18)

03系は先頭がパノラミックウィンドウで、3000系のイメージを引き継いでいる。
3000系は営団のラインカラーが制定されていないころの登場。のちのラインカラー制定で、日比谷線は3000系のノーメイクのステンレスボディの色がそのままラインカラーとなった。
日比谷線に新形式が登場すると聞いたとき、千代田線6000系以来続くアルミ車体であることは間違いなかったが、帯はどうするのか気になった。
結局、アルミ地肌にグレー(正式にはシルバー)帯+アクセントのラインというシックな仕上がりになった。
Sマークも黒っぽくてよかったのだが、東京メトロになってから青濃淡のロゴがついて、若干渋さが減少してしまった。

多摩川園駅以外での写真はまた次の機会に。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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