今回は総武快速線。緩行線をすでにやっておきながら、こちらはノータッチだったので、今さら。
横須賀線の文字が入らないのは、そっちでの写真がほぼないからだ。
現在の「総武快速線」の列車は総武線としての東京—成東間のほか、成田線香取・成田空港、鹿島線鹿島神宮、外房線上総一ノ宮、内房線君津まで入る列車がある。
東京以西は「横須賀線」の久里浜まで直通。実際は東京—鶴見(通過)間が東海道線の別線、鶴見—大船間は東海道線と並行した複々線で、大船—久里浜間のみが正式な横須賀線だ。
私が物心ついてからは外房線大原行や内房線木更津行が当たり前のように走っていたが、最近知らぬ間に消えてしまった。
現在は京葉線の直通列車が外房線勝浦(発着)・内房線上総湊(発のみ)からあって、総武快速より房総の奥へ入っている。
反対側は東京行か品川行という時代があったのを憶えていて、横須賀線が地上の東京駅へ入っていた時代の末期だろう。
ちなみに当ブログで行先の表現を「東京行」と、“行き”ではなく“行”ですませているのは、この総武線快速の側面方向幕の一部に「東 京行」という書式があったからだ(編成のクハだけこれになってるのもよくあった)。これは写真やコレクションで今も見ることができる昭和の列車のホーロー製サボでもおなじみ。
113系
1972(昭和47)年、東京—錦糸町間の地下線新設と錦糸町—津田沼間の複々線化により快速列車用として投入された。
横須賀線とつながった1980(昭和55)年にはグリーン車が登場。
1999(平成11)年まで27年間に渡って総武快速線の顔として活躍した。
113系(本八幡・1991)
東京方4連+千葉方サロ2両入り11連のスタンダードな15連。ただ当時は付属なしの11連で運行の列車も多かった。
サロは狭幅ユニット窓が並ぶものや特急形から改造の固定窓(一部スウィング窓改造)のものなど様々だが、写真の編成は前者のみの構成で編成美を保っている。
113系・183系「特急さざなみ」(東京・1988)(d)
東京駅地下ホームの113系。ヘッドマークは当ブログでは何度か出てきているJR1周年記念のもの。
地上ホームと離れた位置にある地下ホームは、のりかえの場合はエスカレーターを何本も乗り継いで移動する。
番号も地上と切り離して「地下1〜4番線」と名付けられている。のち京葉線も別の地下ホームで乗り入れ、「京葉1〜4番線」まで登場した。両地下ホーム同士ののりかえは大変だ。
113系・183系「ホームライナー」(東京・1988.10.4)(f)
同じく183系との並び。183系のクハは非貫通形1000番台車改造の1500番台。
113系(錦糸町・1988)
錦糸町には本線脇に電留線があり、今もE217系の寝床になっている。
背後のロッテ会館は現在は取り壊され、新たに来年会館予定のロッテシティホテルが建設中。ロッテ会館にはボウリング場とバッティングセンターがあり、ボウリングの順番を待つ間に下のフロアでバッティングをして時間つぶしができた。バッティングエンターはビルの1フロアにすぎず、フライになる当たりを打つとすぐ天井に当たった(蒲田や水道橋にも似たような施設がある)。ここで練習を続けるとライナーやゴロを打てるようになったかもしれない。
113系(市川・1988)(d)
113系(市川・1989)(d)
113系(市川・1989)
113系(市川・1990)
私は総武線だと西船橋が最寄りになるので、東京から快速に乗ってきた場合は市川で緩行にのりかえる。そんなわけで、市川で撮った写真が多いみたいだ。
市川は名前こそ市の名前だが、市役所は隣の本八幡にあったりする。
この市川は快速線の両外側に追い抜き線が設けられていて、特急待避に使われている。待避中には途中で抜いた緩行に追い抜かれるという、ウサギとカメ状態が起きる。待避のときは結構長く停まるんだな、これが。
89年の写真のとおり、渡り板の裏面が紺に塗られている車両があった。
113系(新小岩・1989)
荒川・中川放水路を渡ってきた113系。新小岩の西方にはその鉄橋があり、緩行、快速のそれぞれ複線橋梁と、貨物用の単線橋梁の3本の長大トラスが並んでいる。
113系(新小岩・1989)
右側で新小岩操へ線路が分かれ始めている貨物線は非電化で亀戸—新小岩操間で単線で並行していて、亀戸で本線から南へ分かれて小名木川・越中島貨物駅まで通じている。新小岩操からは電化の新金線が伸び、常磐線金町までつながっている。団臨の抜け道ルートとして有名。
113系(船橋・1989)
新小岩や東京での写真の列車と同じ09運用。ほんと、偶然。下り列車のグリーン車も見える。
113系(東船橋・1989)(f)
東船橋にて。編成をきちんと入れようなんて考えはなしに撮っている。
113系「白い砂」(錦糸町・1989)
夏休みの房総快速。「白い砂」は外房線の列車で、行先は安房鴨川だったと思う。
113系「青い海」(西船橋・1988)
こちらは内房線の「青い海」。近づいた所で撮れないアングルで遠目に撮ったやつを大胆にトリミング。
西船橋の貨物側線が残っている頃で、いつも留置されていた貨車(ホキ?)が先頭車の横に少しだけ見える。
113系「青い海」(錦糸町・1989)
下りは館山行だったと思う。六角形のヘッドマークは153・165系で走っていた房総急行のそれと同じ形だ。
それにしても、夜の山に雪が降るスキー臨のような絵だな。土地も季節も正反対だ。
113系(錦糸町・1989)
「白い砂」「青い海」を待っているときにやって来た上り列車の後部。なんと「総武線」の幕を出していた。同じ目的の知らない者同士が数人いたんだけど、みんな気づいてパシャパシャ。
すると、車掌氏が降りてきて「これ、珍しいでしょ?」と。一同、「はぁ」というしかなく。
少々の停車時間があったこともあり、今度はその車掌自ら幕を回し始め、プチ撮影会開始。
113系幕プチ撮影会(錦糸町・1989)
片手を伸ばし、手動の幕を回しまくる車掌氏。もちろん、そこにいた同志たちが撮り終わったのを見計らって次のコマを出している。
「横須賀線」は横須賀線の東京地上ホーム乗り入れ時代に、「快速」は同時期の総武快速で表示されていたもの。両者が直通するようになって「横須賀線-総武線」になった。
「急行」はそう意外でもなかったが、「特別快速」が入っていたのには驚いた。
発車時刻になると、車掌氏はきちんと「総武線」に戻して発車していったのだった。…きちんとしてないわい!
列車が東京行だったか横須賀線直通だったか記憶は定かではないが、東京駅まではたしかに「総武線」だ。でも、誰かが社に報告したらあの車掌氏は注意を受けたかもなぁ。我々は「面白いものを撮らせてもらってありがとう」の想いしかないわけだが。
写真が縦位置なのは言わずもがな、ホームの余りが少なく引きの画面が不可能だったから。
この錦糸町で撮った写真に限り、正面のタイフォンの位置が高い1500番台なのも不思議。(つづく)
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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