今回もジョイトレのなつかし写真。JR東日本の電車ジョイトレのものを一部再掲も含めて紹介。
なのはな
「なのはな」は幕張所属の165系お座敷電車。1986(昭和61)年に登場し、電車としては初めての本格的なお座敷車両となった。種車の165系のスタイルから、3+3で分割可能な6両編成となった。
菜の花は千葉県の県花で、そのイメージの黄色ベースの車体となった。ただ、黄色は控えめで薄い。各車両の愛称はすみれ・あやめ・きんせんか・すいせん・あじさい・ゆり、と、菜の花ではない花の名前が付いているのが不思議なところ。
165系「なのはな」(品川・1988.4.3)(d)(再掲)
JR移行から1年が経ち、品川の臨時ホームに連日ジョイトレが集合したときのもの。
なのはなは国鉄時代の改造ということもあり、顔は整形されずヘッドサインが付いただけの小さな変化にとどまった。貫通扉の窓にはマリ区の黄色い編成札が下がっていて、番号は3連ずつS1とS2と分かれている。
165系「なのはな」(新松戸・1989)
ジョイトレは団体貸切が多いため、乗降スペースをつぶして客室スペースに活かすことが多い。2ドアの165系ベースのなのはなも、1ドアになっている。方向幕は品川のものと同じでS1が「団体専用」、S2が「臨時」を出している。
165系「なのはな」(五反田・1989)
山手貨物線を行くなのはな。S1も「臨時」に変わっている。
165系「なのはな」(大宮・1995.10.30)(再掲)
成田線での自動車との衝突による乗務員死亡事故を受け、東海顔の車両や103系は運転台と助士側の窓下をステンレス板で補強する工事が行われた。
東海顔車両の施工当初はステンレス地肌丸出しの「鉄仮面」状態。湘南色やスカ色の車両は元の塗り分けを無視して211系のような二重帯で済まされたが、なのはなの場合は緑の濃淡のラインは元と同じように引かれた。
しかし見た目が悪いこともあり、のちにみんな元通りに塗装され、写真の状態になった。補強時にヘッドライトがシールドビーム化されたため、塗装後も元のイメージとは異なっている。
165系「なのはな」Nゲージモデル(KATOベースの宮沢模型製品)
中学生のころ船橋の東武の模型売り場(現存せず)で予約して買った、なのはなのNゲージモデル。お年玉でもらってとっておいたお金を使って買ったと記憶している。どうやらこの宮沢製は現在高値で扱われているらしいが、そんなことも想像してなかった当時、銀の細いペイントマーカーで先頭車4両のうちの2両の「前面補強」を施した。
緑のラインに沿ってカッターでスジを入れて、銀がはみ出さないように塗っただけだ。なので、ライトはシールドビームにはなってなくて当然原形のまま。
ちなみに現在の私は鉄道模型にはまったく手をつけておらず、10代のときに買ったりもらったりしたNゲージの車両・ユニトラックをそのまま保管しているのみ。
なのはなは1998(平成10)年に現在の485系「ニューなのはな」の登場で引退。短い期間だがニューとともに走っていたこともある。
パノラマエクスプレスアルプス
「パノラマエクスプレスアルプス」は三鷹所属の165系展望電車。国鉄末期に製作をはじめ、1987(昭和62)年のJR移行直前から運行を開始した。
車内はピッチの広いリクライニングシートと、ラウンジ、個室などで構成。なのはなと同じ3+3の6両編成だが、中間でクモロが向かい合う線対称の編成となった。
165系「パノラマエクスプレスアルプス」(品川・1988.4)(d)(再掲)
アルプスの最大の特徴がこの展望車。名鉄パノラマカーや小田急ロマンスカーを思わせる、運転台を屋上に上げたスタイル。JRではこのあとキハ183系「オランダ村特急」や485系「シルフィード」が同じスタイルの展望車で登場した。
なおシルフィードは現在「NO.DO.KA」に変身、オランダ村特急は「ゆふいんの森II世」→「シーボルト」→「ゆふDX」(古代漆色)→「ゆふDX」(山吹色)と次々とスタイルを変え、来年は「あそぼーい!」として6パターン目の姿にまた生まれ変わることが発表されている。
165系「パノラマエクスプレスアルプス」(新宿・1988)(d)
展望を考慮したのは側面も同じ。これでもかというくらいの大窓が並んでいる。ヘッドサインのロゴデザインはイマイチ。
165系「パノラマエクスプレスアルプス」(新宿・1988)(d)
1枚目は「白馬」を表示したクモロ。クモロの顔はわりと原形をとどめていて、ライト類とタイフォンが変わった程度。対して2枚目のクロは改造では加工が大変なため、車体は新造している。
165系「パノラマエクスプレスアルプス」(新宿・1988)(d)
当時は最先端の雰囲気だったLEDの表示器。14・12系客車改造の「スーパーエクスプレスレインボー」もLED表示だった。
165系「パノラマエクスプレスアルプス」(秋葉原・1990)
総武線秋葉原駅を千葉方面に抜けるアルプス。
ほかのジョイトレに比べると団体より多客臨寄りに考えられた内装で、「しんせん・やまなし号」では元メルヘン用167系をアルプス色に塗り替え、アルプスで挟んだ3+4+3の10連で運行された。また、写真の1990(平成2)年にはなのはなを中間に挟んだ12連の運行もあったそうだ。
2001(平成13)年に引退したアルプスは富士急へ譲渡され、2000形「フジサン特急」と生まれ変わり、3連ずつに分けられて活躍を続けている。その外装は…だ。
リゾートエクスプレスゆう
「リゾートエクスプレスゆう」は勝田の485系のジョイトレ。1991(平成3)年の登場時は2列・1列のシートを千鳥配置した座席車だったが、1998(平成10)年にお座敷車に再改造された。
485系「リゾートエクスプレスゆう」(両国・1993.4.18)
両国駅列車ホームに入ったゆう。実はこの車両を撮ったのはこの時の1度だけだ。
ゆうは特急形のサロ183・189・481形を改造した車両との位置づけだが、どれも付随車のため、走行機器は485系の廃車発生品を利用、車体も新製で、種車の部品はあまり使われていない。
485系「リゾートエクスプレスゆう」(両国・1993.4.18)
江戸東京博物館とドーム付のイベントカー(4号車・サロ485-1)を絡める。実は、江戸東京博物館は3月にオープンしたばかり。それを意識して撮ったんだろう。
イベントカーはフリースペース。車内はクラブ的な完全な異空間になっている。ドーム部分はハイデッキでリクライニングシートを配置した展望座席になっている。このイベントカーはお座敷化の影響を受けずデビュー時の状態を保っている。
ゆうはJR東日本において1990年登場のNO.DO.KAに次ぐ古い編成となっているが、現在も元気に走り続けている。非電化区間乗り入れ用の「ゆうマニ」についてはこちらで。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
2010/12/21
ジョイフルトレイン なつかし写真・6 サザンクロス上京と東海車
今回はJRのジョイフルトレインのなつかし写真集第6回。
これまで1・2のみ番号をつけたタイトルにしていたが、3・4・5に当たる記事も今回に合わせて改題した。
パノラマライナー・サザンクロス
「パノラマライナー・サザンクロス」はJR九州に所属した12系6連のジョイフルトレイン。編成両端は「サロンエクスプレス東京」に始まるガラス張りの展望室。JR九州のコーポレートカラーに通じる赤い車体だが、造り始めたのはJR化直前の国鉄時代で、JR化…いわゆる国鉄分割・民営化当日の1987(昭和62)年4月1日にデビューした。
JR九州の客車ジョイトレはお座敷の「山編成」・「海編成」とこの座席車のサザンクロスだけ。九州のジョイトレは気動車を用いたものがほとんどだった。
さて、私がサザンクロスを撮ったのは一度の運転のときのみ。そして最初に撮った場所が、何と地元・西船橋駅だ。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
武蔵野・京葉線12番線に入線したサザンクロス。EF65PFのプッシュプルで、展望車の顔をしっかり撮ることは不可能だったのが残念。西船橋側は1106号機。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
府中本町側は1102号機。テールマークは通常はサザンクロスの名前が出ているが、今回は列車の名前「マーメイドエクスプレス」が表示されている。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
この列車は競艇の「第25回総理大臣杯競走」のキャンペーン列車で、九州からやって来て各地を回った。詳細は憶えていない。
客車からバンドが出てきて、『聖者の行進』の演奏を始めた。こちらの音はなぜか未だ耳に残っている。横のキャンペーンガールがメロディに乗ってプラカードと腰を左右に揺らしていた。
ただ、あんまりアナウンスでのPRがなかったし、突如現れた珍客にホームの一般客は呆気にとられていただけだった。武蔵野線からやって来てこの駅で折り返したので、その運行上の都合で、ついでのパフォーマンスをしただけだったのかもしれない。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
西船橋っぽいアングルで、と、9・10番線から撮ったり、地上の総武線ホームから撮ったり。
この後三郷に移動。鉄橋のある西船橋方はすでに埋まっていて無理だったので、府中本町方から撮ったようだ。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(三郷・1990.3.18)
うーん、編成ズッポシの写真がないな。サザンクロスの上京は後にも先にもこの機会一度きりだったはずだ。
当時のDJ誌の運転予定表などの印象では、同タイプの編成が他に造られなかったように九州ではあまり需要がなかった感じ。1994(平成6)年3月にJR九州のジョイトレ廃止策によって早くも引退。7年ほどの命。もちろん減車はできるが、やっぱりキャパが大きすぎたんだろうな。ちょっと勿体なかった。
いこい
「いこい」はJR東海に所属した12系6連のジョイフルトレイン。国鉄時代の1982(昭和57)年に登場したお座敷列車だ。沼津運転所に所属したことから「ヌマ座」とも呼ばれた。
EF65 106+12系「いこい」(品川・1989)
EF65一般形に牽かれてきた「いこい」。外観は12系客車の塗装そのままで、地味な存在だった。
JR東海には同じく12系標準色の「ナコ座」(名古屋鉄道管理局所属だったから)があったが、そちらは両端スロフが原形顔をくり抜いて展望室化したものだった。ただ、いこいと違って一般向けの愛称は付けられなかった。
EF65 106+12系「いこい」(品川・1989)
14系のようなテールマーク装置が貫通扉に設置されている。側面は窓や中間車の片側デッキが塞がれ、グリーン車マークがアクセントになっている。各車両は静岡県を流れる川の名前がついていた。
12系「いこい」(品川・1991)
大宮に現れたいこい。JR東海所属なので、たまに上京してくる、という感覚の車両だった。1997(平成9)年まで地味な姿のまま活躍した。
なお、JR西日本にもスハフ12 701が「いこい」の名で存在していたが、こちらはのちに気動車ジョイトレ「セイシェル」のキサロ59 501に再改造された。
ゆうゆう東海
「ゆうゆう東海」はJR東海に所属した165系3連のジョイフルトレイン。ハイデッカー構造のリクライニングシート車で、中間車にはイベントステージも備えていた。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
165系電車を改造したジョイトレとしては、「なのはな」、「パノラマエクスプレスアルプス」に続いて3例目。ゆうゆう東海の顔は非貫通化と展望室化が行われていて、原形顔を保ったなのはなと、展望室を造ったアルプスの中間の顔といえる。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
窓回りはライトグリーン。チョコミントアイスクリームのミント部分的な感じか。腰回りはブロンズっぽいゴールド。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
ゆうゆう東海は普通車。側面の楕円の色は東海らしくみかんとお茶が由来。湘南色の由来もそういわれることが多いが、実際は後付けなんだそうだ。
ゆうゆう東海は1999(平成11)年まで使用されたが、晩年は出番は少なく、ホームライナーなどにも使われたようだ。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
これまで1・2のみ番号をつけたタイトルにしていたが、3・4・5に当たる記事も今回に合わせて改題した。
パノラマライナー・サザンクロス
「パノラマライナー・サザンクロス」はJR九州に所属した12系6連のジョイフルトレイン。編成両端は「サロンエクスプレス東京」に始まるガラス張りの展望室。JR九州のコーポレートカラーに通じる赤い車体だが、造り始めたのはJR化直前の国鉄時代で、JR化…いわゆる国鉄分割・民営化当日の1987(昭和62)年4月1日にデビューした。
JR九州の客車ジョイトレはお座敷の「山編成」・「海編成」とこの座席車のサザンクロスだけ。九州のジョイトレは気動車を用いたものがほとんどだった。
さて、私がサザンクロスを撮ったのは一度の運転のときのみ。そして最初に撮った場所が、何と地元・西船橋駅だ。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
武蔵野・京葉線12番線に入線したサザンクロス。EF65PFのプッシュプルで、展望車の顔をしっかり撮ることは不可能だったのが残念。西船橋側は1106号機。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
府中本町側は1102号機。テールマークは通常はサザンクロスの名前が出ているが、今回は列車の名前「マーメイドエクスプレス」が表示されている。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
この列車は競艇の「第25回総理大臣杯競走」のキャンペーン列車で、九州からやって来て各地を回った。詳細は憶えていない。
客車からバンドが出てきて、『聖者の行進』の演奏を始めた。こちらの音はなぜか未だ耳に残っている。横のキャンペーンガールがメロディに乗ってプラカードと腰を左右に揺らしていた。
ただ、あんまりアナウンスでのPRがなかったし、突如現れた珍客にホームの一般客は呆気にとられていただけだった。武蔵野線からやって来てこの駅で折り返したので、その運行上の都合で、ついでのパフォーマンスをしただけだったのかもしれない。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(西船橋・1990.3.18)
西船橋っぽいアングルで、と、9・10番線から撮ったり、地上の総武線ホームから撮ったり。
この後三郷に移動。鉄橋のある西船橋方はすでに埋まっていて無理だったので、府中本町方から撮ったようだ。
EF65 1102+12系「サザンクロス」+EF65 1106(三郷・1990.3.18)
うーん、編成ズッポシの写真がないな。サザンクロスの上京は後にも先にもこの機会一度きりだったはずだ。
当時のDJ誌の運転予定表などの印象では、同タイプの編成が他に造られなかったように九州ではあまり需要がなかった感じ。1994(平成6)年3月にJR九州のジョイトレ廃止策によって早くも引退。7年ほどの命。もちろん減車はできるが、やっぱりキャパが大きすぎたんだろうな。ちょっと勿体なかった。
いこい
「いこい」はJR東海に所属した12系6連のジョイフルトレイン。国鉄時代の1982(昭和57)年に登場したお座敷列車だ。沼津運転所に所属したことから「ヌマ座」とも呼ばれた。
EF65 106+12系「いこい」(品川・1989)
EF65一般形に牽かれてきた「いこい」。外観は12系客車の塗装そのままで、地味な存在だった。
JR東海には同じく12系標準色の「ナコ座」(名古屋鉄道管理局所属だったから)があったが、そちらは両端スロフが原形顔をくり抜いて展望室化したものだった。ただ、いこいと違って一般向けの愛称は付けられなかった。
EF65 106+12系「いこい」(品川・1989)
14系のようなテールマーク装置が貫通扉に設置されている。側面は窓や中間車の片側デッキが塞がれ、グリーン車マークがアクセントになっている。各車両は静岡県を流れる川の名前がついていた。
12系「いこい」(品川・1991)
大宮に現れたいこい。JR東海所属なので、たまに上京してくる、という感覚の車両だった。1997(平成9)年まで地味な姿のまま活躍した。
なお、JR西日本にもスハフ12 701が「いこい」の名で存在していたが、こちらはのちに気動車ジョイトレ「セイシェル」のキサロ59 501に再改造された。
ゆうゆう東海
「ゆうゆう東海」はJR東海に所属した165系3連のジョイフルトレイン。ハイデッカー構造のリクライニングシート車で、中間車にはイベントステージも備えていた。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
165系電車を改造したジョイトレとしては、「なのはな」、「パノラマエクスプレスアルプス」に続いて3例目。ゆうゆう東海の顔は非貫通化と展望室化が行われていて、原形顔を保ったなのはなと、展望室を造ったアルプスの中間の顔といえる。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
窓回りはライトグリーン。チョコミントアイスクリームのミント部分的な感じか。腰回りはブロンズっぽいゴールド。
165系「ゆうゆう東海」(品川・1989.8)
ゆうゆう東海は普通車。側面の楕円の色は東海らしくみかんとお茶が由来。湘南色の由来もそういわれることが多いが、実際は後付けなんだそうだ。
ゆうゆう東海は1999(平成11)年まで使用されたが、晩年は出番は少なく、ホームライナーなどにも使われたようだ。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
2010/12/20
相鉄 なつかし写真
関東の大手私鉄では相模鉄道のなつかし写真だけまったく出していなかったので、今回はその相鉄。
小さい大手私鉄の大いなる野望
相模鉄道(相鉄:そうてつ)は現在横浜—海老名の本線と二俣川—湘南台のいずみ野線の2路線で営業運行をしている私鉄。
相鉄は1990(平成2)年に運輸省〜国土交通省の指すところの「大手私鉄」となった。これはいずみ野線がいずみ中央まで延伸したことで大手私鉄入りの基準となる路線総延長をクリアしたためだそうだ。ということで、現在も大手私鉄の中では総延長は最短。
相鉄のすごいところは現在の編成長が20m車10連もしくは8連という長大編成ばかりということだ。私鉄・公営鉄道で20m車10連が走るのは都心の地下鉄やそこと相互乗り入れを行う会社ばかり。相鉄は自社内だけの運行という違いがある。
相鉄の横浜駅は他線と少々離れているためにのりかえは不便で、通勤で東京へ出る利用者にとっては10連の客が一斉に出口に移動するこの駅での動きは大きなネックになっている。
現在、相鉄は都心直通を実現すべく準備を進めている。これは本線西谷(にしや)駅から線路を分け、JRの東海道貨物線へ接続(ここに旅客駅の羽沢(はざわ)駅を新設)、鶴見で品鶴線に移って湘南新宿ラインで新宿まで直通する。羽沢の次の駅は新川崎だ。
また羽沢からは新横浜駅、新設の新綱島駅を通って東急東横線日吉駅へつなぐ路線も造り、東急へも直通する計画になっている。東急側の直通先は目黒線主体だが東横線へも入る予定とのこと。
JRへの直通開始後は相鉄線内でも優等列車の通過運転区間を拡大(特急の新設)するなど変化が起こるようだ。
この一連の計画について詳しくはWikipediaの「神奈川東部方面線」を参照してほしい。読みながら想像すると特に東急への乗り入れは「ほんとにこんなのが実現するのか?」と思わずにはいられない。
アクシデント発生時のダイヤ乱れは心配だ。横浜で「東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅で発生した人身事故の影響で相鉄線はダイヤが乱れています」なんて放送を聞いても全くピンとこない。
新線分岐のための西谷駅の改築はすでに着手され、車両にもJR型の機器の搭載が進むなど、JR直通についてはもう動き出している。
それでは、車両の写真を撮った駅ごとに紹介。
平沼橋
横浜を出て最初の駅が平沼橋。東海道線と並行した位置にあり、奥には横浜の駅ビルが見える。
5000系(平沼橋・1992.9.6)
5000系は相鉄初の新性能車。1955(昭和30)年に登場し、はじめは東急5000系に似た湘南顔・モノコック構造の中型軽量車体で、ボディーマウント構造も用いていた。塗装はグレーと青のツートンに赤・白のラインを配した「当時の派手のセンス」を体現したものになった。
中型車2・4連という構成やボディーマウント構造による保守の手間などから、1972(昭和47)年から足回りを活かしつつ、2100系に似たアルミ車体の5100系へ生まれ変わった。側窓は2100系初期車の2段窓から進化して一段下降窓となったが、これは日本の通勤車で初の、乗客がボタンを押して開閉できる油圧式パワーウィンドウ。
1988(昭和63)年から5100系はVVVFインバータ制御に更新され、再び5000系に名前を戻した。これが写真の状態だ。正面のライト類が内寄りになっている、グロベン、側面幕帯が太いところなどが7000系とのわかりやすい(いや、わかりづらいか)違い。
5000系は11000系の導入で昨年引退した。
7000系(平沼橋・1992.9.6)
7000系は新6000系の足回りと5100系の車体を組み合わせたような新製車で、1975(昭和50)年から製造が始まった。通風機はガラベン(ガーランド型ベンチレーター)で、5100系よりも退化した印象もある。正面のライト類は2100・5100系よりも外側にあり、何か窮屈。
7000系は現在徐々に数を減らしており、一部は黄色の事業用車700系に改造され異彩を放っている。
8000系(平沼橋・1992.9.6)
8000系は1990年に登場した系列で、6000系置き換えのために投入された。先頭デザインは6000系以来続いた中央に貫通扉があるスタイルから脱皮し、左右非対称の垢抜けたものになった。また相鉄のこれまでのアルミ車はストレート車体だったのに対し、初の裾絞り型になった。
南万騎が原
南万騎が原(みなみまきがはら)はニュータウン路線であるいずみ野線の駅。1976(昭和51)年にいずみ野まで開業したI期区間の二俣川から1つ目の駅だ。
6000系(南万騎が原・1994.3.24)
6000系は1961(昭和36)年に登場した系列で、中型3ドア・ユニット式電動車・先頭車非貫通の5000系のスタイルを脱皮し、大型20m4ドア・1M式電動車・貫通先頭車として、編成組成の自由度を増した実用本位の車両。一方で、中間車を側面から見たときに両端ドアから車端までの長さが左右で非対称…つまり窓割りが違う、独特な面も持っている。これは近鉄の通勤車に見られるが、関東の新性能車では登場時の5000系とともに珍しい存在。
6000系(南万騎が原・1994.3.24)
登場時は5000系の派手なカラーリングを踏襲した6000系だったが、のちこのライトグリーンに屋根深緑・裾オレンジというこれまたトンチンカンな塗装に変更された。
度重なる更新で姿が変わった。ヘッドライトは1灯時代の台座がのこったまま国鉄103系的なブタ鼻に更新され、助士側窓には種別と運行番号を表示する機械がついた。冷改も行われた。
120両が造られたこの形式・このカラーリングこそ、私の中での相鉄のイメージだ。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
いずみ中央行の8000系がくぐって来たのは東海道新幹線の高架。
当時の相鉄のデータイムは横浜—二俣川間において、横浜—いずみ中央の各停と横浜—海老名の急行が交互に走る、非常にシンプルなダイヤだった。
いずみ野線の湘南台延長で急行の下にいずみ野線発着の快速が登場。これに横浜—大和の各停も加わってダイヤは多少複雑になっている。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
8000系の増備が進む途上、新系列の9000系が登場した。何と1992(平成4)年〜1999(平成11)年までの間、この8000系と並行して製造・投入された。調べてみると…
1992:8000×3本、9000×1本(以下同)
1993:8000×1、9000×1
1994:8000×1
1995:8000×1、9000×1
1996:8000×1、9000×2
1997:8000×1
1998:8000×1
1999:8000×1、9000×1
…こんな感じだ。8000系は日立製作所、9000系は東急車輌での製造で、ともに貫通10連オンリーだ。写真当時9000系はすでに登場しているわけだが、本数が少ないこともあって撮ることはできなかった。
9000系のクロスシート(二俣川・2007.6.9)(mb)
8000・9000系は車内も同じスタイルで、5号車と8号車はセミクロスシートになっている。両系列を列車によって使い分けることはない。
写真は撮影でない用事で相鉄を使った際にケイタイで撮ったもの。これが私の撮った唯一の9000系の写真。右上にはパワーウィンドウの操作ボタンが見える。
大阪市営地下鉄では長期にわたって30系ステンレス車・アルミ車両方の製造が続いたが、この相鉄の例とともに、用途の同じ2車種を並行製造することは珍しい例だ。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
側面は裾に赤と白のストライプが入れられたが、私は「やはり相鉄センスだ」という感想を抱いた。東急や名鉄と並んで新性能車でのダサデザインが多い会社だ。東急に関しては7700・8000系の「歌舞伎塗り」や現5000系の顔、名鉄は近年登場の4000系に継がれているように代々一般車のルックスが悪い。
CIの実施により、現在新7000系以降の車両は青幕帯とオレンジ裾帯の姿への衣替えが進んでいる。まとまりのない感じの9000系の顔も、このCIの実施で「大人のツラ」に変身した。
いずみ中央
いずみ中央は前述の1990年にいずみ野から1駅延伸して開業した駅。なお仙台市営地下鉄には「泉中央」(1992年開業)、泉北高速鉄道には「和泉中央」(1995年開業)と、どれもニュータウン路線の中におなじ読みの駅が存在している。仙台・泉北の両駅は現在も終点になっているが、このいずみ中央も1999年まで終点だった。
新6000系(いずみ中央・1994.3.24)
新6000系は1970(昭和45)年に登場した広幅車で、在来の6000系と違ってユニット式電動車、中間車も左右対称となった。車体幅は国鉄近郊形・急行形の2,900mmを上回るデビュー当時最大の2,930mm。JRの209系500番台の2,950mmに近い。正面は窓が小さいもあって、何かで見たインドの電車を思い起こさせる。
この車両も当初は旧5000系に倣った塗装だったが、のちこのライトグリーンになった。一部、6000系との混結も行われた。
7000系(いずみ中央・1994.3.24)
7000系の正面は2100・新6000・5100系と同じで方向幕より種別・運行番号幕のほうが天地が大きいという不思議なもの。これらの系列のほか6000・3010系も含めて側面には方向幕がなく種別幕のみが設けられ、ダイヤのシンプルさがうかがえた。
新7000系(いずみ中央・1994.3.24)
7000系の車体を変更した新7000系は1986(昭和61)年に登場した。正面はブラックフェイスを採用し、帯はSの字をアレンジした。側面も窓下に太赤帯と細オレンジ帯を入れた。7000系までのオレンジと、8000・9000系の赤が混じった、まさに過渡期の車両であることを体現している。
最初の2本(6連+4連の10両編成)は7000系と同じ抵抗制御で造られたが、3本目からはVVVFインバータ制御を採用し、足回りも7000系から脱した形になった。
写真の7753FはVVVFの3本目。VVVF車は車号下2ケタが51からとなっている。
緑園都市
いずみ野線沿線のニュータウンの中核として設けられたのがこの緑園都市駅。駅の周りの風景はまさに「ニュータウンです!」と言わんばかりのもの。駅名もいずみ野線内ではひときわ気合いが入っている。
新7000系(緑園都市・1994.3.24)
ヘッドマークをつけた「Green Box」編成がグリーン・シティに到着。編成丸ごと広告枠を貸し切るもので、JR東日本の「ADトレイン」などにも見られた形態。
この広告列車に用いられたのは新7000系最終編成の7755Fで、のち8000・9000系で採用した5・8号車のセミクロスシートを最初に試験導入した編成でもある。
列車の背後、柵の外に見える緑は駅の路盤に植えられているもの。この駅は島式2面4線化できる構造で、外側線を通す路盤に緑園都市の文字通り植栽をしている。
新7000系(緑園都市・1994.3.24)
駅を出て万騎が原トンネルに入る新7000系。同じ年に登場した国鉄207系900番台に顔が似ている。足回りも2年後れた7551Fから同じGTOサイリスタ素子のVVVFインバータ制御になった。
新7000系の新塗装は、正面が非常に地味で物足りないものになっている。
6000系(緑園都市・1994.3.24)
平成っぽいデザインの高層団地と古くさい6000系のコラボ。写真当時上屋のない部分が多かったホームだが、現在は新たな上屋が付け足されているようだ。
厚木
厚木はJR相模線と小田急が旅客駅を設けているが、相鉄も海老名駅手前の相模国分信号所から線路を分け、厚木線としてこの厚木まで伸ばしている。厚木線は貨物線だったが現在貨物列車の設定はなく、貨物ヤードを旅客車の留置線に転用したのちは回送線としての役割を担っている。JRとの連絡線は相鉄の新車搬入時に活用されている。
6000系・新6000系(厚木・1991.3.15)
実はこれが私が最初に撮った相鉄の写真。相模線気動車最期の日についでに撮ったもの。
写真の派手な新6000系は「Green Box ほほえみ号」。1983(昭和58)年からこの年の9月まで「ほほえみ号」としてこの塗装で運行された6718F。横浜駅乗り入れ50周年を記念した特別塗装なんだそう。すべての期間でGreen Boxだったわけではないようで、ほほえみ号引退後は一般色に戻り、Green Boxの座も前出の7755Fに譲った。
新6000系にはこの他にも「アートギャラリー号」や「緑園都市号」といった特別塗装編成が存在した。
6000系は1997(平成9)年、新6000系は2003(平成15)年までに全車引退した。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
小さい大手私鉄の大いなる野望
相模鉄道(相鉄:そうてつ)は現在横浜—海老名の本線と二俣川—湘南台のいずみ野線の2路線で営業運行をしている私鉄。
相鉄は1990(平成2)年に運輸省〜国土交通省の指すところの「大手私鉄」となった。これはいずみ野線がいずみ中央まで延伸したことで大手私鉄入りの基準となる路線総延長をクリアしたためだそうだ。ということで、現在も大手私鉄の中では総延長は最短。
相鉄のすごいところは現在の編成長が20m車10連もしくは8連という長大編成ばかりということだ。私鉄・公営鉄道で20m車10連が走るのは都心の地下鉄やそこと相互乗り入れを行う会社ばかり。相鉄は自社内だけの運行という違いがある。
相鉄の横浜駅は他線と少々離れているためにのりかえは不便で、通勤で東京へ出る利用者にとっては10連の客が一斉に出口に移動するこの駅での動きは大きなネックになっている。
現在、相鉄は都心直通を実現すべく準備を進めている。これは本線西谷(にしや)駅から線路を分け、JRの東海道貨物線へ接続(ここに旅客駅の羽沢(はざわ)駅を新設)、鶴見で品鶴線に移って湘南新宿ラインで新宿まで直通する。羽沢の次の駅は新川崎だ。
また羽沢からは新横浜駅、新設の新綱島駅を通って東急東横線日吉駅へつなぐ路線も造り、東急へも直通する計画になっている。東急側の直通先は目黒線主体だが東横線へも入る予定とのこと。
JRへの直通開始後は相鉄線内でも優等列車の通過運転区間を拡大(特急の新設)するなど変化が起こるようだ。
この一連の計画について詳しくはWikipediaの「神奈川東部方面線」を参照してほしい。読みながら想像すると特に東急への乗り入れは「ほんとにこんなのが実現するのか?」と思わずにはいられない。
アクシデント発生時のダイヤ乱れは心配だ。横浜で「東京メトロ有楽町線銀座一丁目駅で発生した人身事故の影響で相鉄線はダイヤが乱れています」なんて放送を聞いても全くピンとこない。
新線分岐のための西谷駅の改築はすでに着手され、車両にもJR型の機器の搭載が進むなど、JR直通についてはもう動き出している。
それでは、車両の写真を撮った駅ごとに紹介。
平沼橋
横浜を出て最初の駅が平沼橋。東海道線と並行した位置にあり、奥には横浜の駅ビルが見える。
5000系(平沼橋・1992.9.6)
5000系は相鉄初の新性能車。1955(昭和30)年に登場し、はじめは東急5000系に似た湘南顔・モノコック構造の中型軽量車体で、ボディーマウント構造も用いていた。塗装はグレーと青のツートンに赤・白のラインを配した「当時の派手のセンス」を体現したものになった。
中型車2・4連という構成やボディーマウント構造による保守の手間などから、1972(昭和47)年から足回りを活かしつつ、2100系に似たアルミ車体の5100系へ生まれ変わった。側窓は2100系初期車の2段窓から進化して一段下降窓となったが、これは日本の通勤車で初の、乗客がボタンを押して開閉できる油圧式パワーウィンドウ。
1988(昭和63)年から5100系はVVVFインバータ制御に更新され、再び5000系に名前を戻した。これが写真の状態だ。正面のライト類が内寄りになっている、グロベン、側面幕帯が太いところなどが7000系とのわかりやすい(いや、わかりづらいか)違い。
5000系は11000系の導入で昨年引退した。
7000系(平沼橋・1992.9.6)
7000系は新6000系の足回りと5100系の車体を組み合わせたような新製車で、1975(昭和50)年から製造が始まった。通風機はガラベン(ガーランド型ベンチレーター)で、5100系よりも退化した印象もある。正面のライト類は2100・5100系よりも外側にあり、何か窮屈。
7000系は現在徐々に数を減らしており、一部は黄色の事業用車700系に改造され異彩を放っている。
8000系(平沼橋・1992.9.6)
8000系は1990年に登場した系列で、6000系置き換えのために投入された。先頭デザインは6000系以来続いた中央に貫通扉があるスタイルから脱皮し、左右非対称の垢抜けたものになった。また相鉄のこれまでのアルミ車はストレート車体だったのに対し、初の裾絞り型になった。
南万騎が原
南万騎が原(みなみまきがはら)はニュータウン路線であるいずみ野線の駅。1976(昭和51)年にいずみ野まで開業したI期区間の二俣川から1つ目の駅だ。
6000系(南万騎が原・1994.3.24)
6000系は1961(昭和36)年に登場した系列で、中型3ドア・ユニット式電動車・先頭車非貫通の5000系のスタイルを脱皮し、大型20m4ドア・1M式電動車・貫通先頭車として、編成組成の自由度を増した実用本位の車両。一方で、中間車を側面から見たときに両端ドアから車端までの長さが左右で非対称…つまり窓割りが違う、独特な面も持っている。これは近鉄の通勤車に見られるが、関東の新性能車では登場時の5000系とともに珍しい存在。
6000系(南万騎が原・1994.3.24)
登場時は5000系の派手なカラーリングを踏襲した6000系だったが、のちこのライトグリーンに屋根深緑・裾オレンジというこれまたトンチンカンな塗装に変更された。
度重なる更新で姿が変わった。ヘッドライトは1灯時代の台座がのこったまま国鉄103系的なブタ鼻に更新され、助士側窓には種別と運行番号を表示する機械がついた。冷改も行われた。
120両が造られたこの形式・このカラーリングこそ、私の中での相鉄のイメージだ。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
いずみ中央行の8000系がくぐって来たのは東海道新幹線の高架。
当時の相鉄のデータイムは横浜—二俣川間において、横浜—いずみ中央の各停と横浜—海老名の急行が交互に走る、非常にシンプルなダイヤだった。
いずみ野線の湘南台延長で急行の下にいずみ野線発着の快速が登場。これに横浜—大和の各停も加わってダイヤは多少複雑になっている。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
8000系の増備が進む途上、新系列の9000系が登場した。何と1992(平成4)年〜1999(平成11)年までの間、この8000系と並行して製造・投入された。調べてみると…
1992:8000×3本、9000×1本(以下同)
1993:8000×1、9000×1
1994:8000×1
1995:8000×1、9000×1
1996:8000×1、9000×2
1997:8000×1
1998:8000×1
1999:8000×1、9000×1
…こんな感じだ。8000系は日立製作所、9000系は東急車輌での製造で、ともに貫通10連オンリーだ。写真当時9000系はすでに登場しているわけだが、本数が少ないこともあって撮ることはできなかった。
9000系のクロスシート(二俣川・2007.6.9)(mb)
8000・9000系は車内も同じスタイルで、5号車と8号車はセミクロスシートになっている。両系列を列車によって使い分けることはない。
写真は撮影でない用事で相鉄を使った際にケイタイで撮ったもの。これが私の撮った唯一の9000系の写真。右上にはパワーウィンドウの操作ボタンが見える。
大阪市営地下鉄では長期にわたって30系ステンレス車・アルミ車両方の製造が続いたが、この相鉄の例とともに、用途の同じ2車種を並行製造することは珍しい例だ。
8000系(南万騎が原・1994.3.24)
側面は裾に赤と白のストライプが入れられたが、私は「やはり相鉄センスだ」という感想を抱いた。東急や名鉄と並んで新性能車でのダサデザインが多い会社だ。東急に関しては7700・8000系の「歌舞伎塗り」や現5000系の顔、名鉄は近年登場の4000系に継がれているように代々一般車のルックスが悪い。
CIの実施により、現在新7000系以降の車両は青幕帯とオレンジ裾帯の姿への衣替えが進んでいる。まとまりのない感じの9000系の顔も、このCIの実施で「大人のツラ」に変身した。
いずみ中央
いずみ中央は前述の1990年にいずみ野から1駅延伸して開業した駅。なお仙台市営地下鉄には「泉中央」(1992年開業)、泉北高速鉄道には「和泉中央」(1995年開業)と、どれもニュータウン路線の中におなじ読みの駅が存在している。仙台・泉北の両駅は現在も終点になっているが、このいずみ中央も1999年まで終点だった。
新6000系(いずみ中央・1994.3.24)
新6000系は1970(昭和45)年に登場した広幅車で、在来の6000系と違ってユニット式電動車、中間車も左右対称となった。車体幅は国鉄近郊形・急行形の2,900mmを上回るデビュー当時最大の2,930mm。JRの209系500番台の2,950mmに近い。正面は窓が小さいもあって、何かで見たインドの電車を思い起こさせる。
この車両も当初は旧5000系に倣った塗装だったが、のちこのライトグリーンになった。一部、6000系との混結も行われた。
7000系(いずみ中央・1994.3.24)
7000系の正面は2100・新6000・5100系と同じで方向幕より種別・運行番号幕のほうが天地が大きいという不思議なもの。これらの系列のほか6000・3010系も含めて側面には方向幕がなく種別幕のみが設けられ、ダイヤのシンプルさがうかがえた。
新7000系(いずみ中央・1994.3.24)
7000系の車体を変更した新7000系は1986(昭和61)年に登場した。正面はブラックフェイスを採用し、帯はSの字をアレンジした。側面も窓下に太赤帯と細オレンジ帯を入れた。7000系までのオレンジと、8000・9000系の赤が混じった、まさに過渡期の車両であることを体現している。
最初の2本(6連+4連の10両編成)は7000系と同じ抵抗制御で造られたが、3本目からはVVVFインバータ制御を採用し、足回りも7000系から脱した形になった。
写真の7753FはVVVFの3本目。VVVF車は車号下2ケタが51からとなっている。
緑園都市
いずみ野線沿線のニュータウンの中核として設けられたのがこの緑園都市駅。駅の周りの風景はまさに「ニュータウンです!」と言わんばかりのもの。駅名もいずみ野線内ではひときわ気合いが入っている。
新7000系(緑園都市・1994.3.24)
ヘッドマークをつけた「Green Box」編成がグリーン・シティに到着。編成丸ごと広告枠を貸し切るもので、JR東日本の「ADトレイン」などにも見られた形態。
この広告列車に用いられたのは新7000系最終編成の7755Fで、のち8000・9000系で採用した5・8号車のセミクロスシートを最初に試験導入した編成でもある。
列車の背後、柵の外に見える緑は駅の路盤に植えられているもの。この駅は島式2面4線化できる構造で、外側線を通す路盤に緑園都市の文字通り植栽をしている。
新7000系(緑園都市・1994.3.24)
駅を出て万騎が原トンネルに入る新7000系。同じ年に登場した国鉄207系900番台に顔が似ている。足回りも2年後れた7551Fから同じGTOサイリスタ素子のVVVFインバータ制御になった。
新7000系の新塗装は、正面が非常に地味で物足りないものになっている。
6000系(緑園都市・1994.3.24)
平成っぽいデザインの高層団地と古くさい6000系のコラボ。写真当時上屋のない部分が多かったホームだが、現在は新たな上屋が付け足されているようだ。
厚木
厚木はJR相模線と小田急が旅客駅を設けているが、相鉄も海老名駅手前の相模国分信号所から線路を分け、厚木線としてこの厚木まで伸ばしている。厚木線は貨物線だったが現在貨物列車の設定はなく、貨物ヤードを旅客車の留置線に転用したのちは回送線としての役割を担っている。JRとの連絡線は相鉄の新車搬入時に活用されている。
6000系・新6000系(厚木・1991.3.15)
実はこれが私が最初に撮った相鉄の写真。相模線気動車最期の日についでに撮ったもの。
写真の派手な新6000系は「Green Box ほほえみ号」。1983(昭和58)年からこの年の9月まで「ほほえみ号」としてこの塗装で運行された6718F。横浜駅乗り入れ50周年を記念した特別塗装なんだそう。すべての期間でGreen Boxだったわけではないようで、ほほえみ号引退後は一般色に戻り、Green Boxの座も前出の7755Fに譲った。
新6000系にはこの他にも「アートギャラリー号」や「緑園都市号」といった特別塗装編成が存在した。
6000系は1997(平成9)年、新6000系は2003(平成15)年までに全車引退した。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)