今回は205系などを。
205系
205系投入は1988(昭和63)年12月に東中野で起きた列車追突事故でリタイアした車両の代替としてだった。
事故は東中野駅に停まっていた中野行103系10連に後続の中野行201系10連が追突したという恐ろしいもの。ATSが運転士の確認ボタン押下ひとつで無力になってしまうことが原因だった。
201系側の乗客1人と運転士が亡くなり、追突に至った大元の原因は明らかになっていない。JR化後初の死亡事故でもあった。
下り勾配の左カーブの先に駅がある現場は、視界が悪いために過去にも似たケースが起きている場所だった。
この事故により、改良をしたATS-Pの設置が各線で進んだ。
事故に遭った車両は103系・201系とも9両ずつが廃車。各線で棺桶に入りかけていた非冷房やクモハ入りの103系をかきあつめて代役を立てたあと、埼京線用に用意されていた205系2本が総武線に回されることになった。
205系(秋葉原・1989.8.2)
総武線の205系は1989(平成元)年8月1日に営業運転を始めた。つまり、上の写真はその翌日のもの。
快速列車がある埼京線用のため正面向かって右側に種別表示幕があり、総武線では初の「各駅停車の幕」が表示された。
205系(下総中山・1989)
こちらのミツ23編成はのち埼京線に転用。その後しばらくは先の写真のミツ6編成が唯一の総武線205系として奮闘した。
のち京浜東北線と南武線から別編成が転入し仲間が増えた。
205系(中野・1990)
中野駅2番線で千葉行として折り返す205系。
この中野から三鷹の間では営団東西線の車両と同じ線路を走る。同区間緩行線ホームでは「黄色の電車:中央・総武線各駅停車 銀色の電車:東西線直通」という案内表示がされていた。
当時の東西線は営団5000系・05系がステンレスもしくはアルミ車体で水色帯、JR301系と103系1200番台・1000番台がグレーに総武線カラーの黄色帯というスタイル。JRの東西線直通用車は「銀色」でないものの、黄色のベタ塗りでないことから東西線と把握されていた。
301系は登場時はクリアラッカーを吹き付けたアルミ地肌が見えていて、黄帯は側面幕部の1本のみの「ほぼ銀色」の電車だった。しかし、帯はのちに腰と前面にも巻かれ、クリアラッカーのひび割れが目立つようになるとアルミ地肌はグレーに塗装された。
鋼製の103系1000番台・1200番台がグレー地で登場したのは地下鉄直通車301系のイメージを継いだためだったが、その今度は301系が103系に倣った色になったわけだ。
そこにステンレスで黄色帯の205系が登場。2本だけの存在でしょっちゅう目にする車両でもなかったことが誤乗を促進した。
対策として205系にはドア上に「中央・総武線各駅停車」のステッカーを貼付したが、ほどなくもっと大胆な策が施された。
301系(西船橋・1989)(再掲)
これが…
301系(西船橋・1991)
…こうなった。
205系より断然両数が多い東西線直通用車が東西線に合わせた帯色(京浜東北線と同じ青22号)になった。これで「黄色:中央・総武線各駅停車 青:東西線直通」と変わったわけだ。
常磐緩行線〜千代田線直通用の103系1000番台や203系も常磐線のエメラルドグリーン帯をまとうが、千代田線のラインカラーも緑のため、営団車とはさほど変わらなかった。当時快速は103系のエメグリベタ塗りだったが、現在の快速用E231系は緩行線同様の銀色の車体でややこしい存在になっていて、申し訳程度にウグイス帯を加えているが、どうせならE531系と同じ紺にしたほうがいいと思う。
ちなみに常磐快速線から1本だけ東西線直通用に転属してきた103系1000番台が黄帯だった期間は、ほんのわずかだった。
東西線系の青帯化後、205系のドア上誤乗防止ステッカーははがされた。
不発弾処理
201系(西船橋・1990.12.9)
1990(平成2)年12月9日、両国駅前の江戸東京博物館建設現場で見つかった不発弾の除去作業が行われた。
作業時間帯は総武線は御茶ノ水—錦糸町間が運休。錦糸町—西船橋間は3区間に分けて1列車ずつのピストン運用となった。
区間は錦糸町—新小岩、新小岩—市川、市川—西船橋。新小岩—市川は西行線路、あとの2つは東行線路を使用した。
これは、同区間の緩行線の折り返し設備が西船橋にしかないためで、現在も総武線は事故が起きると長い区間が不通になり困る。
201系(西船橋・1990.12.9)
西船橋1番線から白幕の市川—西船橋担当列車が発車しようとしているところ。手旗による原始的な信号表示だ。撮影位置はホーム市川方端。
201系(西船橋・1990.12.9)
中線(2・3番ホーム間)からは西船橋—千葉の区間列車が発車。奥の4番線の車両は回送を表示。4番線から東行線路には移れないので、あの車両は運休区間復帰まで動かないのだろう。撮影位置はホーム千葉方端。
「方向紙」(1990.12.9)
錦糸町—新小岩と新小岩—市川間の列車は103系。お手製の表示は紙に筆書きのこれまた原始的なもの。字体を見る限り、すべて同じ方が書いたものだと思われる。
各列車は徐行運転で、西船橋から錦糸町までかなりの時間がかかった。
事前に告知がされていたこともあり、乗客が慌てるような姿は特に観られず、普段にない感じを楽しんでいる雰囲気もあった。
快速線はどうなってたんだかまったく憶えていない。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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