2012/02/29

営団東西線 なつかし写真・5000系-4

東西線5000系ステンレス車の最後は1990年代半ばの写真。数は…残念ながら少ない。


完全10連化

東西線5000系の7連は組み替えによって1990(平成2)年を以て消滅した。この記事ではそれ以降の写真となる。


5000系(深川検車区・1991.7.29)(再掲)

全車戸袋窓なし10連は東葉1000形への種車となったりして早いうちに消滅してしまった。この車両達はすでに営団車としては引退しているもので、台車が傷まないようたまにチョロッとだけ動かされていたそうだ。
帯色の濃い72Fと奥のATS-Pが載っていない73・76Fでは乗務員室扉窓の天地寸法が違うのがわかる。新製時の差ではなく交換によるものだろう。



5000系(西船橋・1993.8.28)(再掲)

昼間の九段下行はダイヤでの設定はないので、何らかの事情での運転。ただ、昨年の震災後はダイヤで設定されたっけ…。



5000系(西船橋・1993.10.31)

冷改のタイミングが遅かった編成は黒Hゴム化や内装の白系デコラ化という色の変化が減っている。もともとが簡易冷改だが、さらに余計な更新をカットしたスタイル。



5000系(西船橋・1993.10.31)

冷改84Fと非冷房66F。この時代には助士側の機器箱が窓の向こうから消え、すっきりしている。


5000系(南行徳・1993.10.31)

南行徳を出発した64F。なぜだか近い番号の編成の写真が集まっている。この編成は西船橋方3両と中間のサハ5900形1両が戸袋窓なし車両。こんな不揃いな編成も見られた。


5000系(中野・1993.11.6)

角丸側窓の5018。車掌さんがちょろっと写っているが、当時の営団はモスグリーンのジャケットと筒形の帽子の制服が印象的だった。その制服切り替えの初日はまだ自動改札ではない頃で、朝原木中山駅に入ったら改札ブースにロンドンっぽい人(?)が2人立っていてビックリした記憶がある(夏服は当記事3枚目の写真に)。
この程度の画質のプリントをしてもらえる頃にたくさん撮っておけばよかったが…。1988年のものと同じカメラなのだ。


5000系(原木中山・1994.4.17)

1994(平成6)年になってもまだ走っていた非冷房車。この当時はラスト2編成程度が辛うじて残っていた、というような記憶。この年には非冷房車は消滅…つまりは冷改が完了しているようだ。


5000系(神楽坂・1995)

竹橋駅より濃いめの緑のタイルが印象的だった神楽坂駅。現在は改装されてしまった。
この日なぜかこの1枚だけ撮っている。紙焼き写真としては、この1枚が5000系を撮った最後で、編成もラストナンバーというのは何の因果か? この日なぜ神楽坂駅にいたのか定かでないが、父がこの駅最寄りの会社勤務で、二度ほど急な不幸で喪服を持って行った記憶があるので、そのときかもしれない。


ケイタイで

社会人となってから列車撮影はやめてしまっていたが、デジカメという新しいアイテムが普及すると、ついには携帯電話にもカメラが搭載された。
2004(平成16)年4月に営団地下鉄は東京メトロとなった。その後の5000系の最終期にケイタイで撮ったものを載せよう。




5000系(行徳検車区・2006.5.24・mb)(1・2枚目は再掲)

ケイタイのカメラ画質もどんどん向上しているが、まだ向上する以前の粗いものだ。この3連は先の神楽坂の写真の97F。教習用として行徳検車区に置かれていた。写真翌年に解体。


5000系(妙典・2006.6.9・mb)

この当時は妙典で独り暮らしをしていて、始業が遅い会社に勤めていた。これはその通勤の時に遭遇した59F。あまり鉄道の情報も得ていなかった頃だが、さすがに5000系がほとんどいなくなったのは気づいていたので撮ったのだ。


5000系(妙典・2006.11.21・mb)

これまた同じ場所での1枚。やっぱり59F。


5000系(妙典・2006.12.5・mb)

これも59F。東西線5000系は59Fとアルミ車90Fの2本が残った状態だった。方向幕はガラスが汚れて昼はほとんど読み取れなかった。


メトロ5000系(船橋日大前・2007.3.5・mb)(再掲)

引退が迫りHMが取り付けられた59F。仕事帰りの足としてようやく遭遇した日の1枚。東葉区間で撮ろうと考え、なぜかこの駅を選んだのだ。これまた東葉のダサいライトブルーの制服が懐かしい。
この12日後の3月17日が最終運行だったそうだ。

これにて5000系ステンレスカーのなつかし写真はおしまい。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2012/02/28

営団東西線 なつかし写真・5000系-3

今回はこまごまあったため前記事から漏れた1989年と1990年の5000系の写真をまとめて紹介。
地味なものばかりだが…。


行徳1989

行徳駅は相対式2面2線の駅。しかし「かぶりつき」で列車に乗っていると2面4線の駅が迫ってくるように見える。
ホーム上屋はY字の鉄骨で支えられており、外側は両方向とも先細りになっていて、2面4線に対応した構造なのだ。駅は開業時からその外側部分に壁を建てて塞いだようなスタイルとなっている。コンコースへの階段はホーム枕木方向中央にあり、ホーム上では階段の線路と逆側も通り抜けができるようになっている。


5000系(行徳・1989)

この5839Fは千代田線開業用に製造された5000系のトップナンバー。3連で新造→中間車2両を新造し5連化→5連2本連結で10連化→東西線移籍で再び5連ずつに分けられ、戸袋窓なし中間車を新造し7連化という変遷。4・5両目は戸袋窓がなくツルツルな部分が多いので明るく光っている。


5000系(行徳・1989)

残雪の軌道を走る。これまた元千代田線の7連。


5000系(行徳・1989.8)

相変わらずの若気の至りフラッシュ御免。


5000系(行徳・1989.8)

ほんと、この頃は何も考えずに撮っていた。


5000系(行徳・1989.8)

戸袋窓が埋められた5813F。日陰で真っ暗。


茅場町1989

地下駅ではあまり撮らなかったが、茅場町のものが4枚あった。
茅場町は日比谷線との接続駅。東西線では他ののりかえ駅はすべて、コンコースに出るとまた違うレベルにあるホームに移動をさせられるが、この駅のみは東西線ホームからコンコースへ上がると日比谷線ホームのレベルに出る構造になっている。


5000系(茅場町・1989)

7連の快速も当たり前のように設定されていた。
もともと白タイルのみの装飾だった茅場町の壁はこの頃に改装されてラインカラーが付いた。証券会社の広告は兜町の最寄り駅である茅場町ならでは。


5000系(茅場町・1989)

こちらもSが白文字なので7連とわかる。5038は東西線に直で投入された先頭車では5838とともにいちばん最後の番号。新製順では竜巻事故の代替車・5818(2代目)が一番新しかった。


5000系(茅場町・1989)

冷改・帯改修・ATS-Pが揃った5829F。まだ乗務員室助士側に大きな箱があり、完全版とはなっていない。


5000系(茅場町・1989)

こちらは非冷房のままATS-Pが付けられた5817F。
となりの日本橋との短い駅間にはシーサスクロッシングがあったため、ルートとしては永代通り直下でまっすぐだがホームがすぼまっている。


西船橋1990

東西線はもっとたくさん撮っていたような気がするが、この年以降は探してみると思ったより枚数が少なかった。地元すぎてじっくり撮ることもしなかったのが今となると惜しい。


5000系(西船橋・1990)

この頃には先頭車正面窓に編成番号が表記されている。津田沼行。…ということは学校の休みの時期に朝の西船橋で撮ったものだろう。JRの番線表示は国鉄型からJR型に変わっている。


5000系(西船橋・1990.9.9)(再掲)

すでにアップした写真。何らかの理由で西船橋口が葛西折り返しでの運行になったのだが、詳細を憶えていない。85FはまだATS-P化されていない。
【2021年追記】葛西行発生の理由が判明した。初出記事参照。


5000系(西船橋・1990.9.9)(再掲)

こちら59Fは東西線で一番最後まで残った5000系の編成。ATS-Pは載ったが非冷房と、編成毎に仕様がバラバラ。


原木中山1990

現在と同じく、どこかへ撮りに出かけるときについでに撮っているだけと思われる3枚。


5000系(原木中山・1990)

この編成は編成番号がまだない。西船橋の写真より前の時期なのかな?


5000系(原木中山・1990)

トップナンバー・5801号。数少ない昭和30年代製造の車両だ。


5000系(原木中山・1990)

カメラもフィルムも同じものでも、DPEをどこに頼むかで仕上がりが左右される。この1枚は西船橋での津田沼行の写真と同じ店にプリントを頼んだものとわかる。車両は夜の葛西行の写真と一緒。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2012/02/27

営団東西線 なつかし写真・5000系-2

今回は1989(平成元)年の写真。


1989

東西線5000系は昭和30年代末期に登場した非冷房車。この頃になると、都心のJR路線や大手私鉄の車両冷房化率が高くなってきたが、営団はトンネル冷房を導入していたこともあり、車両冷房化は大きく後れを取っていた。
当ブログのこれ系の記事に頻出している話題だが、営団は駅どころか駅間のトンネルも冷房装置を付けて冷やしていたため、車両の窓開けによって夏場の涼感を得ることを推進した。抵抗制御車の発熱がこもるのが地下鉄の課題であり、トンネル冷房はその改善策だった。

たしかに暑さは和らいだが、バラストのないトンネル区間で窓開けをすると騒音がものすごく、風もあって髪がグシャグシャになることもあった。なので、車内は心地よい空間とは到底言えなかった。
さらには、明かり区間ではただの非冷房車になってしまうということ。自社線内に明かり区間が多い東西線はもとより、他の架線集電路線もみな他社への直通運転を行っていて、乗り入れ先ではなお不評となる。


5000系(原木中山・1989)

この年、予測もしなかった5000系冷改車が登場。
東西線は05系投入・5000系廃車により冷房化率を上げる流れにしたかったが、5000系が大量に在籍する状況から、05系新製だけは長期に渡り非冷房車が幅を利かせることになり、5000系にも冷房を積むことになったのだ。
写真の5829Fが最初の冷改編成。JRの通勤・近郊形と同じく、屋根上の機器を2台に分散した簡易冷改で、車内もダクトが2本天井に付いてものものしい雰囲気になった。
この最初の編成は帯が従来の色あせた状態のままになっていた(写真は絹目プリントのスキャン)。


5000系(原木中山・1989)

原木中山駅1番線ホームに入線する各駅停車。原木中山駅は「新幹線型」と言われる通過線を持つ駅で、快速列車の通過待ちが行われる。写真右の保線車両庫は現在は撤去されている。


5000系(原木中山・1989)

当時の10連は戸袋窓がある7両に戸袋窓がない新製中間車3両を組み込んだもの(写真左)が基本だったが、更新により戸袋窓を埋め込んだ車両(写真右)も存在し、10両すべてが戸袋窓なしで揃った編成もあった。


5000系(原木中山・1989.8)

これも戸袋窓埋め込み改造をされた車両(前4両)。先頭の5019はパンタグラフがきれいに撤去されている。


5000系(原木中山・1989)

こちら5030はパンタ台が残り、戸袋窓も健在。


5000系(原木中山・1989)

若番車は側窓の角のRが大きい。まるで国鉄103系や東武8000系のような変遷。またベンチレーターも若番車は薄い八角形のものがまっすぐ並んでいたが、のちの増備車両に合わせて写真の形の千鳥配置に変更されている。これは日比谷線3000系と同じ変遷。


5000系アルミ車・5000系(原木中山・1989)

7連の5950Fが10連の5803Fの快速の通過待ち。5950は北綾瀬に行くことなく廃車になった。


JR103系1200番台・5000系(原木中山・1989.8)

冷改・黄帯7連の過渡期スタイルの103系を横目に5000系非冷房車10連の快速が通過。103系には冷改時に付いた側面方向幕は、5000系に設けられることはなかった。


5000系(原木中山・1989)

原木中山駅2番ホームを出発し本線に合流する列車。妙典駅開業以降、原木中山駅での快速通過待ちは減っている。


5000系(原木中山・1989)

この時代は編成番号ステッカーはなかった。


5000系(西船橋・1989)

5000系冷改編成の2本目がこの5835F(だったと思う)。この編成は帯が彩度の高い鮮やかな色に改修され、黒Hゴム化もあって引き締まった感じになった。


5000系(西船橋・1989)

非冷房車との並び。帯とHゴムの色の差に注目。非冷房5830Fはベンチレーターが載っているが、冷改車は撤去されている。


5000系(西船橋・1989)

従来の帯はビスのアタマが三段に並んでいるのが見えた。側面は二段。


5000系(西船橋・1989)

この年のもう一つの変化が、JR区間対応のためのATS-Pの取付。乗務員室助士側に機器が載ったため、快速表示器が撤去され、方向幕が「快速」付行先コマを追加したものに取り替えられた。また廃止されていた英字表記が復活、漢字も大きく見易い書体に変更された。「地下鉄経由」の文字は快速の赤地部分に収められた。


JR301系・5000系(西船橋・1989)

この頃、中央・総武緩行線にステンレスの205系が投入されたことから、東西線直通用の301系・103系は青帯に変更された。「東西線は銀色の電車」と案内していた中野以西で誤乗の苦情が多発したためだ。同じくJRも冷改が進められ、このころはバラエティに富んだ車両群となっていた。


5000系(西船橋・1989)

雪の残る西船橋駅に停車中の5835F。冷改車は抵抗制御からJR205系などと同じ界磁添加励磁制御となり、発熱が抑えられた。ただ、5000系戸袋窓あり車の特徴的な「ウァ〜〜ア〜〜ン〜〜」というコンプレッサーの音(日比谷線3000系や京急先代1000形でも採用)も聴けなくなってしまった。新製戸袋窓なし車は「ゴゴゴゴゴゴ…」という別の音だった。


5000系(西船橋・1989)

非常に気持ち悪かったのが、新幕での地下鉄経由各駅停車のコマ。各停のコマでも快速の赤地の位置に「地下鉄経由」が置かれていて、「地下鉄経由」と「NAKANO」を合わせたかたまりが幕の中で左右センタリングになっていないのだ。どれだけアタマの硬いフォーマットなんだ? と思った。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)