流山駅から歩き続け、小金城趾駅を過ぎた踏切での撮影を終えた。
日が雲に隠れて一気に夕方になってしまった。
小金城趾→幸谷(つづき)
カーブの踏切から馬橋方は遮断機・警報機なしの第四種踏切が3つ並んでいる。どれも個人の土地への出入り用。
12号踏切(幸谷—小金城趾)
列車はここを通るとき必ずタイフォンを鳴らす。自らの安全のためとはいえ、ここに住む方たちはひねもすタイフォンを聞いていることになる。
移転前の小金城趾駅はこの付近にあったそうだ。
線路と新坂川に挟まれた道を進む。道路橋をくぐってしばらく進むとノーマルな第一種の踏切に出る。
この踏切を渡り線路の東側の道を進むと、奥に武蔵野線のデルタ線(北小金支線)が流鉄を跨いでいる。
流鉄は小金支線をカーブでくぐってくる。そこを狙ってみた。
2000系「青空」(幸谷—小金城趾)
日は雲から出てきたが、だいぶ低くなっている。建物の隙間から一瞬だけ日が顔に当たるのがこの位置だった。
ちょうど私が立った位置が、その昔大谷口(おおやぐち)駅があった場所だそう。大谷口は鰭ヶ崎とともに創業時設置の中間駅だったが、1953(昭和28)年に前述の小金城趾旧駅が設置され、入れ替わりに廃止となった。
「流星」が小金城趾で交換してすぐ来るはず。一旦後戻りし、先ほどの踏切をスルーして進んだ位置で迎える。ここにも橋りょうを発見。
5000系「流星」(幸谷—小金城趾)
「大谷口橋りょう」にさしかかる「流星」。名前とは裏腹に、ほんの数mのドブ川の橋だ。
再び北小金支線の高架へ向かって進み、高架をくぐってしばらく行くと幸谷駅に到着。
(幸谷)
JR新松戸駅前、マンションの1階にある幸谷(こうや)駅。かつての駅は現在の武蔵野線の位置より南側、写真奥300m先にあった。
1973(昭和48)年に武蔵野線が開業。常磐線との交点に新松戸駅が新設され、武蔵野線の終点となった。5年半後には武蔵野線が西船橋に延伸された。新松戸駅接続の利便をはかるため、1982(昭和57)年に幸谷駅は現在地に移転した。
TX開業による流動変化により馬橋・流山両駅の利用客が減少し、この幸谷が流鉄での乗降客数トップに躍り出ている。JRとののりかえに関しては、対西船橋方面が一番多いのではないかと思う。
幸谷→馬橋
ここまで来てしまえば、あとひと駅でおしまい。当然歩き続ける。
右に武蔵野線馬橋支線、新坂川、左に流鉄、常磐線という並びの空間を歩く。ただ、進むのは新坂川沿いの道で、流鉄は建物の裏に隠れている。
馬橋支線が徐々に近づいてくるあたりにある踏切に着くと、すぐ鳴き始めた。
5000系「流星」(馬橋—幸谷)
これじゃカッチリ撮れないな。建物がなければ日が当たってもっとズームを利かせて撮れたが。
この踏切を渡り、住宅街を進む。馬橋支線が流鉄をまたいだ先の踏切に到着。
2000系「青空」(馬橋—幸谷)
真っ昼間ならキレイに撮れる場所。時刻が17:54じゃぁ、仕方ないな。
線路と新坂川の間の遊歩道を進む。途中のちょっとだけ開けたところで「青空」の流山行を狙ったが、見事に失敗。
常磐線を跨ぐ歩道橋近くの踏切に出た。「流星」をじっと待つが、さすがに待たされた。何しろ馬橋駅はすぐそこだから。
5000系「流星」(馬橋—幸谷)
こちらも前は失敗。金網越しに後追い。この踏切から先は常磐線と一体化した敷地内となる。
再び新坂川沿いを進んで馬橋駅に到着。流鉄脇には新しい商業ビルが建っていて、一部を除いて店舗スペースは空き室。まだ何の店が入るか読み取れないという段階だ。
ビルのエレベーターで3階に上がると、駅の改札口直結フロアとなる。JRに入場。
(馬橋)
常磐線ホームから見た馬橋駅。背後の建物は一見古くさいのだが…
2000系「青空」(馬橋・2010.11.7)(再掲)
昨年11月は何も建っていなかったのだ。「青空」のマークはこの日流鉄のイベントだったため特別仕様。
2000系「青空」(馬橋—幸谷)
そして現在はこう。あの夕方の逆光を遮る物ができたのだ。JR側から見たときの流鉄ホームの裏寂れた雰囲気は吹っ飛んでしまったな。
これにて流鉄ウォーキング終了。ノープランで流山駅を出て結局全線歩ききったが、これをやったことがある人は結構多いんじゃないか?
次週ラストの「若葉」を撮りに行くかどうかは、気分次第。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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