2016/03/27

16.3.20 京阪神滋奈・16/大正・JR難波

阪和線鳳から関空・紀州路快速に乗り、大阪環状線の大正駅へやって来た。


両端に橋(りょうはしにはし)

大阪環状線の大正駅は川に挟まれており、両方の川に独特なトラス構造の鉄橋が架かっている。
その橋とオレンジの103系の組み合わせを撮りたいと考えた。
大阪市の西側は大阪湾を控え運河が多く、生活のための渡し船も8カ所で運航されている。そのうち7カ所は大正区内だ。



阪和線225系(大正)

まずは弁天町側の鉄橋を外回りホームから見る。早速225系が来た。
こちらは岩崎運河橋りょう。思いの外橋の背が高く驚いた。…とは言ってもこの駅には初めて来たわけではなく、世紀の境目の時代に何シーズンかに渡って大阪ドーム(現・京セラドーム)での野球観戦のため複数回訪れている。
古い対向式ホームである点は東京ドーム最寄りの水道橋駅と雰囲気が似ているなぁと感じていたが、あまり鉄橋はきちんと見ていなかった。
あのころは撮り鉄はまったくやっていなかったが、環状線のオレンジの電車は103系オンリーだったなぁ。



阪和線225系(大正)

編成は美章園カーブでも撮った近ヒネHF415+HF420編成。



大和路線221系(大正)

関空・紀州路快速の3分後に来たのは6連の大和路快速。
運転台下に「1」の数字が入る近ナラNC601は栄えある221系トップナンバー編成で、6両全車の車号が「1」だ。
この時間は甲子園をセンバツに譲った阪神タイガースが京セラドームでオープン戦を行って試合が終わったところらしく、阪神グッズを身につけた老若男女でホームが溢れていた。
クロスシート・6両のこの電車がホームに滑り込むと、それはそれは乗車に時間を要していた。駅員がアナウンスで「次の列車を待て」と言っても待たないのが大阪の人たちだ。
ちなみに試合は阪神主催で、相手は本来京セラドームを本拠としているオリックス・バファローズであった。



281系特急「はるか」(大正)

30分ヘッド運行の「はるか」。独特の曲面の顔はこういうライティングで表情が出る。



103系(大正)

ようやく103系登場。
最後尾のクハのみ30N体質改善・ほかは40体質改善工事済の近モリLA5編成で、午前中にも桃谷駅で撮っている。
1枚目のうしろのパンタグラフの背後に、グレー塗装で左上〜右下の斜めの鉄材が見える。
あの鉄材は尻無川橋りょうという小さなトラス橋のもの。現在は下の川はなくなってしまったそう。



103系(大正)

ただの鉄板の部分が多い103系高運車の顔。40N体質改善のリメイクでスマートになった印象もあるが、こうして逆光で見るとその装甲感は増しているようにも感じる。窓は縦桟がなくなったことでより細長く見えるのだ。


(大正)

内回りホームの芦原橋方に移動。出入口は弁天町方に寄っているため、こちら側はホーム余分も多いようだ。


阪和線223系(大正)

緑の巨大なX字の鉄骨を背後に223系が入線。弁天町寄りは野球帰りの客でごった返している。


(大正)

芦原橋方にある木津川橋りょう。かつてはこちらも岩崎運河橋りょうと同じ緑色だった。
はじめは一番下の「う」の文字だけ目に入って「??」と思っていたが…あぁ、橋の名前が書いてあったのか。
岩崎運河橋りょうと同じ形をしている。線路は、北側で道路のように直交する2本の川を斜めに突っ切る「A」の字の横棒のルート取りで、 同様に斜めに川を渡ることから2つの鉄橋は左右反転…つまり鏡に映した同一設計だ。

橋の種類は下路ダブルワーレントラス橋で、そこかしこにX型の骨組が見える。
幅がある川に橋脚を置かない1スパンで渡ることを条件に設計すると、橋は背を高くして頑丈にすることが必要になる。
アーチ橋などはそういう条件下で架けられるものだが、この2橋は端から端まで高さが同じ。同じ長さの部材を使えば用意が簡単で、工期の短縮につながるという考えがあったとされている。
ただし橋の設計は本来は実用性だけでなく景観も考えるものであり、この2橋のような形の橋は日本の鉄道橋では珍しい部類のようだ。


江戸川第一橋りょう(葛西—浦安・2007.8.10)(再掲)

参考に、我が地元・東京メトロ東西線の鉄橋の写真。川に一切橋脚を立てずに渡る分で背がかなり高い。
シングルアームパンタの電車が渡っているところだが、アーチの異様な高さがわかると思う。
左下に見えるのは撮ってる位置の目の前にある船の係留用の杭で、橋脚ではない。


103系(大正)

場所を変えて最初に現れたのは103系近モリLA2編成。先ほどのLA5と同じく外回り進行方向先頭車のみ30N体質改善・ほかは40N体質改善車という組成。

木津川橋りょう・岩崎運河橋りょう・尻無川橋りょうは1928(昭和3)年に架けられたもの。
大阪環状線の開通が1961(昭和36)年であるのになぜ33年前の架橋かというと、もともと大阪臨港線という、関西本線から港へ向かって延びた貨物線の橋だったのだ。
大阪臨港線は単線だったがこれらの鉄橋は複線規格で造られ、大阪環状線の一部に取り込まれてめでたく複線での利用が開始された。
大阪臨港線は2004(平成16)年に廃止された。大阪環状線が開業してからは尻無川橋りょうの先の境川信号場から分岐する形となっていた。


103系・阪和線225系(大正)

昭和初期の鉄橋を渡ってきたオレンジの103系…来年にはその姿が見られなくなるかもしれない。
103系を一発で撮ったところで、まだ停まっていた関空・紀州路快速に乗り込んだ。


喧噪はどこへ?

次に向かうのはJR難波駅。
乗ったのが快速だったので、最初のJR難波方面のりかえ駅である今宮駅は通過。新今宮駅で降りる。
なお記事が多くて毎回書いていないが、この関西遠征はフリーきっぷである春の関西1デイパスを使っている。
通常のルールだと、今宮駅でのりかえないといけないのかもしれない。


221系(新今宮)

大阪駅に達しない快速は「大和路」が付かない。 阪和線の快速と関空・紀州路快速との関係と一緒だ。
これに乗って移動。次は終点のJR難波だが、車内はガラガラだ。写真側は近ナラNA416編成。

快速は今宮を通過。今宮駅の時点で右へのカーブが始まっており、列車は地下へ入っていく。



221系(JR難波)

JR難波駅3番線に到着。奈良方は221系の顔を撮れないほどホーム端の余分がなかった。
そこで、気になっていた先頭車同士の連結部を撮影。
JR西日本のルールなのか、どこの路線でも編成中間に入っているのにヘッドライトを点灯しているのだ。
転落防止幌のない先頭車の連結面は照明で目立たせる考えのようだが…。なんだか電球代が勿体ないように思えるな。


221系(JR難波)

JR難波駅は2面4線の地下駅。1・2番線に普通列車が停まっている。
名前の通り大阪・ミナミの繁華街であるなんば地区の地下にあるわけだが…人が少ない。

かつては湊町(みなとまち)駅という地上駅で、頭端式の櫛形ホーム構造だった。
1989(平成元)年に道路整備のため奈良方へ100m移転。
1994(平成6)年にはJR難波駅に改称。関空快速が発着することになったのがきっかけだったようだ。
その2年後の1996(平成8)年に現在の地下駅に移っている。平成1ケタ台は激動の時代だった。
JR西日本各線に登場した「JR」を冠した初めての例だが、駅名に英字が入ったこと自体、JRグループで初めてだったそうだ。


201系(JR難波)

近ナラND613編成。ほどなく出て行った。




201系(JR難波)

2番線のクハ200-135の車内を乗務員室側・連結面側双方から眺める。
30N体質改善工事(103系では同40Nに相当)により昭和の電車はいい感じに垢抜けた。




201系(JR難波)

6両の201系はホームが余るため撮りやすい。クハ200-135先頭のこちらは近ナラND611編成。
なお、終端側はそのまま奥に線路が続いており、将来「なにわ筋線」(なにわぶしせん…ではない)として新大阪まで延ばす構想に沿って備えられているが、具体的な工事計画などを立てるには至っていない。

あまり楽しみがなかったこの駅の観察はほどほどにし、改札を出てミナミの街に出た。
当駅はなんばウォークという巨大地下街につながっており、市営地下鉄、阪神・近鉄、南海の駅にも移動できるが、南海なんば駅はとくに遠い。
東京でいうと京葉線東京駅のような存在で、ちょっと使いづらい場所にあるわけだ。日曜の17時台というのに閑散としているのも理解できる。
なんばウォークをひたすら歩き、NGKの近くのとある飲食店を目指したのだが、店は昼過ぎまでの営業で閉まっていた。(つづく)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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