このところまた、なつかし写真の再スキャン作業を進めていた。
京成とその相互乗り入れ先の各者のものの再スキャンが完了し、画面が曇り気味だったり色が死んでいたものも少々鮮やかにできた。
すでにアップしたものについては差し替え作業を行った。
京成については枚数が多く、まだまだアップしていないものがある。京急についてはなつかし写真の記事を未だ立てていなかったので、未アップの枚数の方が多い。
ということで、今回の記事は京急車の京急・北総線内での写真。京成線内の写真はまた別の記事で出すことにする。
初代1000形
今年6月を以て営業運転を終了した初代1000形は長らく京急の顔として活躍してきた電車。その歴史は1959(昭和34)年登場の初代800形・850形に始まり、1978(昭和53)年までの長きに渡って製造された。
初期車は正面貫通扉のない2枚窓の京急スタイルだったが、地下鉄乗り入れのため貫通扉付きに移行、初期車も同スタイルに改造された。
製造時期や改造でさまざまなバリエーションが生まれ、細かいところを見ているといろんな表情が見えてくる車両だった。
初代1000形(京急川崎・1992.2.10)
特急運用の1000形。表示幕が黒地白抜きになった「黒幕車」で、1988(昭和63)年以降に更新工事を受けた車両がこのスタイルになった。更新の内容にこの表示幕の整備が含まれていたからだ。
初代1000形(京急川崎・1992.2.10)
こちらは白幕車の「マリンパーク号」。油壺のマリンパークに因んだもので、三崎口発着の定期の特急一往復にヘッドマークをつけただけのもの。青砥までは付かず、品川で外される。
調べてみるとこの列車は三崎口でマリンパーク発着のバスとの連絡が便利になっていたんだとか。
初代1000形・2000形(上大岡・1991)
大きな上屋の上大岡駅。これまたマリンパーク号。1000形の冷房装置は分散形と集中形があった。
1000形は京急伝統の大窓車で、窓の底辺の位置の関係でロングシートは位置が低めで、その分座面がゆったりしていた。車内の雰囲気は京成の片開き車とは似て非なるものだった。
初代1000形(新柴又・1993.4.6)
京急空港線が羽田駅(現・天空橋駅)に達したときのPRステッカー付列車。
旧・羽田空港駅は空港手前の海老取川を渡らない位置にあって空港アクセス駅たり得なかったが、空港敷地内への延伸が実現。旧・羽田空港駅を廃して地下に潜る新線を造り、海老取川をくぐった先に羽田駅が1993(平成5)年4月1日に誕生した。東京モノレールも同年9月27日に旧・羽田駅から移転した。
羽田延長の際、18m車3連までだった空港線の駅のホームが延伸されたのだが、8連ではなく6連用にとどめられた。日中の公団〜北総〜京成〜都営〜京急の直通系統は、京急川崎発着から羽田発着に変更となったが、空港線のせいで8連列車が運行できなくなった。6連を持たない北総・公団車は日中に自社線を走れなくなったのだ。
日中の北総線は都営5000形6連か京急1000形ばかりと古くさくなった。1000形は白幕車ばかりの印象だった。6連には更新車が少なかったのかもしれない。
翌1994(平成6)年12月に早くも空港線は8連対応となり、北総車もひねもす自社線内に現れるようになった。はじめから8連対応にすればよかったのに。
1500形
1985(昭和60)年、都営浅草線直通用の新車両として登場したのが1500形。これまた登場時の鋼製・戸袋窓有・界磁チョッパ制御→アルミ・戸袋窓なし・界磁チョッパ→VVVFインバータ制御と変遷しバリエーションが多い。
1500形(京急川崎・1993.4.1)
アルミ車体4連の一番手・1521F。1500形は京急の3ドア車では初の両開きドア車。顔はどこか京急らしくない雰囲気。京王7000系っぽい?
都営5300形・1500形・800形(京急川崎・1993.4.1)
アルミ車体の編成は戸袋窓が廃止され、側面はのっぺりした印象になった。鋼製車は4連口のみだったが、アルミ車から登場した6連口は1600番台となった。
写真の1613Fは初の8連口として登場。当初は8M編成だったが、のちに新造のサハ1900形を2両組み込んで6M2Tとし、2Mは新造1619F8連に組み込まれた。
現在都営浅草線直通運用はVVVF車・スカート付で登場の1700台が担当。1500・1600台は6連化やVVVFへの制御器変更・スカート取付なども進んでいる。
では、京急内専用の車両を…
2000形
2000形は1982(昭和57)年、快特に用いられていた先代600形の後釜として登場した2ドアクロスシートの車両。京急の両開きドア車はこの形式が最初で、大手私鉄の中ではどん尻の登場となった。足回りは800形をベースにした界磁チョッパ制御。
2000形(品川・1990)
オールクロスシートで登場した2000形は地下鉄乗り入れは考慮されておらず、品川以南専用の車両。写真は品川終着後折り返し線に入るところで、右に見えるのは泉岳寺からの地下トンネルの出口。
2000形(六郷土手・1992.4)
多摩川を渡るため高架区間に上がってきた快特。平和島からこの六郷土手の手前まで地平区間だったが、今年の5月16日から同区間上り線が高架に切り替わり、京急川崎の手前から新馬場の先まで連続高架となっている。
2000形は800形に続いて側面窓回りを白としたが、代わりに800形が旧来の窓下帯に変更され、2000形が優等車両であることを示す形になった。
写真の列車は4連口を2本つなげた8連。4連口は車番が2400台になっている。先頭は色が飛んでしまっているが2431だと思われる。
2000形(京急川崎・1992.4)
「さわやかギャラリー号」の2000形。沿線の子どもたちが描いたものを中心とした絵を展示している列車で、この当時の担当はトップナンバー編成2011F。1988(昭和63)年から3年間は白地にさまざまな模様の入った特別塗装で運行されたが、その後は標準色に戻ってステッカーのみのシンプルなスタイルになった。
このトップナンバー編成のみワイパーが逆向きに付いているのが面白い。
2000形(京急川崎・1993.4.1)
羽田駅開業ステッカーは全編成に貼られていたと記憶している。
2000形は快特運用で走行距離が増えたことから1998(平成10)年〜2000(平成12)年に3ドア・扉間ロングシート化改造が始まり、同年に登場した2100形に快特用2ドア車の座を譲った。塗色も窓下帯に変更された。
その後は8連口はラッシュ時中心、4連口は普通列車中心の運用になり、地味な存在になってしまった。
700形
700形は1967(昭和42)年、普通列車用として登場した京急初の4ドア車。4連でデハがサハを挟む2M2Tのエコノミー編成で、加速性能は1000形に劣る。
設計では2M1Tの3連で力を発揮するものだった。登場時の事情からひとまず2M2Tで走らせることとなったものの、結局4連のまま最後まで変わらなかったという悲しい人生だった。
車体は18m級(デハ18.5m・サハ17.5m)で4ドアという、日本の多扉車のさきがけ的車両で、同じく18m級4ドアの大阪市営地下鉄30系の前身である7000・8000形も同年の登場だ。
大手私鉄の各停用であれば都会の駅間の短い区間を走るために、阪神ジェットカー・近鉄ラビットカー等の高加減速タイプが求められるはずだが、700形は乗り降りスムーズな4ドアながら足回りはむしろ優等列車向けという不思議な車両になってしまったのだ。
なお、日本初の4ドア電車はご近所・鶴見臨港鉄道のモハ220形・クハ260形で、1942(昭和17)年製。こちらは16.6m車だった。鶴見臨港鉄道は現在の鶴見線。車両も路線とともに国有化され、のち国鉄の直流電化のローカル線を点々としたあと、救援車となって1980年代前半まで生き残ったそう。
700形(弘明寺・1992.2.10)
正面は1000形に似ているが、ヘッドライトが埋込形に変わり、貫通扉のステンレス幌座がなくなるなどイメージが変わっている。また初期の車両は運転台が高くその窓も天地が小さかったが、途中から運転台が下げられて窓も下に拡大され表情が変わった。初期車ものちに同じスタイルに改造されている。
700形(六郷土手・1992.4)
18m級で片開き4ドアということで、ドア間は戸袋窓と開閉2段窓が1つずつ。もちろんロングシートもロングではなかった。1000形よりも窓が小さいので、背ずりが高く座面が浅いという、短距離利用向けの構造。
しかし加速性能の低さが災いして1978(昭和53)年以降の朝のラッシュ時の普通列車のスジに対応できず、12連の通勤快特などに回された。乗り降りはスムーズだったろうが、着席客はお尻が痛かったかもしれない。
700形は最後は大師線専用となり2005(平成17)年11月いっぱいで引退したが、琴電では足かせだったTを抜いた2Mとなり多くの車両が第二の人生を送っている。
800形
800形は1978(昭和53)年、普通列車用に登場した京急初の界磁チョッパ制御車。700形同様4ドア車だが、3Mの3連を組んで加速性能は1000形と変わらないものになった。
3連の単独運用は件の羽田駅開業前の空港線での例があるが、その他は3連を2本つなげたもの、もしくは追加製造の中間車を入れた貫通6連での運用となった。のち3連+3連の編成も中間の運転台を撤去して6連化された。
800形(鮫洲・1993.4.1)
前述のとおり、800形は登場時側面窓回りを白く塗っていたが、2000形にその塗色を譲ってこの細帯となった。正面の額縁スタイルは同年登場の新京成8000形や翌年登場の国鉄201系など当時の流行でもあったが、2000形の顔も実は800形の顔の候補のひとつだったそうだ。
8000形は2本目から界磁チョッパ、201系は電機子チョッパと三者は似た部分が多いが、800形は正面窓が細い黒センターピラーが入るのみで一枚窓に見えて一番モダンな外観。
800形(1993.4.1)
羽田駅開業記念ステッカーのアップ。赤い電車はライトの配置などまったく京急にないタイプ。翼はジェット機だ。
800形はそれまでの車両と違い、編成番号-号車番号というナンバリングを採用。第3編成の1号車は803-1、第15編成の4号車は815-4という形。貫通6連化の際には号車番号の改番が行われている。
このハイフン番号は次の新形式の2000形には採用されず、その次の現・600形で復活、続く2100形と現・1000形では使われずと、よくわからない状態だ。
800形・京成3300形(京急川崎・1992.4)
800形のハイライトとしては、京急川崎—新逗子間を中心とした急行運用が挙げられる。逗子線発着の急行は最近エアポート急行として復活したが、以前の設定時は800形が担う列車だったのだ。
写真は京急川崎で終着となった800形が下り線に転線する姿。駅隣接の引き上げ線には北総からの直通運用でやってきた京成3300形が停車中。800形は多摩川の鉄橋まで進み、珍しい「鉄橋上の渡り線」を渡って下り線に転線して駅に戻ってくる。800形の幕が「新町」になっているが、本当に京急川崎—神奈川新町間の短距離急行だったのだろうか?
なお、写真の3300形が引き上げ線に入る際に貴重な幕を出した姿をこの時に記録している。過去の記事に載せているので、そちらの参照を。
さいごは遺産の写真。
平沼駅
京急本線横浜—戸部間には対向式ホームの跡が残っている場所がある。これは平沼(ひらぬま)駅の跡。
1931(昭和6)年に京浜電気鉄道の駅として誕生した平沼駅は、大東急時代の1943(昭和18)年に営業休止となり、翌年に廃止された。駅としてはたった13年の命だったが、高架の構造上の都合から構造物はそのまま残っていた。
廃止翌年の1945(昭和20)年5月、連合軍による横浜大空襲により平沼駅跡も焼けてしまった。
平沼駅跡(横浜—戸部・1992)
広島の原爆ドームのごとく、屋根の鉄骨が残った状態になった平沼駅跡は、戦争遺産としてそのまま残された。ホームへ上がる階段が見える。この角度だと、廃線跡にしか見えない。
平沼駅跡(横浜—戸部・1992)
800形と思われる列車が通り過ぎたところ。屋根の鉄骨が架線柱を兼ねていた。真ん中の緑の架線柱の後ろに階段の囲いが見える。
この廃墟の中をひねもす列車が通り抜けていたわけだが、1999(平成11)年、保存も限界となって屋根の鉄骨が撤去された。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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