2010/11/11

常磐線中電 なつかし写真

快速につづいて常磐線中電のなつかし写真。


401・403・415系

1961(昭和36)年6月1日、常磐線取手—勝田間が交流電化された。直流区間が起点に近い取手で終わってしまったのは、石岡の地磁気観測所の観測への影響を減らすため。交流のほうが都合がいいようだ(6年後に水戸線も同じ理由で交流で電化された)。交直デッドセクションは取手—藤代間に設けられた。
この交流電化で、それまで機関車牽引の旧型客車列車が運行されていた取手以北への普通列車に新鋭401系が加入した。

1960(昭和35)年に登場した401系・421系は初の営業用交直両用電車。交流機器は401系が東日本の50Hz対応で常磐線に、421系が西日本の60Hz対応で鹿児島線に投入された。顔は153系と同じで、初期車は低運転台だったのも153系に同じ。車体は交直両用を示すローズピンク1色で、正面窓下にクリームの警戒帯が入った。
新性能車初の近郊形でもあり、車内は70系300番台と同じようなセミクロスシートとし、直流専用の111系登場の礎にもなった。この流れは今世紀になってからのE531系→E233系のつながりに似ていて面白い。

1965(昭和40)年にはモハが出力アップした403・423系に変わり、1971(昭和46)年には403・423系と同出力ながら交流機器が50・60Hz両用となった415系に進化した。
401系・421系の登場当初はそれらの2ドア版を作る構想があり、それに411系・431系の系列名をあてるように考えられていたため401の次が421になったそうだ。


415系(上野・1988)

1985(昭和60)年開催のつくば科学万博の最寄り駅として「万博中央」駅が期間限定の臨時駅で設置されることが決まり、常磐線がアクセスに使われることになった。それに備え1983(昭和58)年から常磐線の中電はローズピンクから白地に青帯に順次塗色変更された。イメージアップのためとされている。
ちなみに万博中央駅があったのは現在のひたち野うしく駅と同じ位置だが、ひたち野うしく駅は一から造って1998(平成10)年に開設した駅だ。
写真のヘッドマークはJR移行後1年目のダイヤ改正を記念したもの。


415系1500番台(上野・1988)

JR移行を控えた1986(昭和61)年、211系にそっくりなステンレス車体を用いた415系1500番台が登場した。システムは415系のままだが、まるで別形式のような姿だ。
車体に関しては211系と比べると正面の表示幕が415系鋼製車と同じ天地の狭いタイプになっている・側面に行先サボ受けがある程度で、他に大きな違いは見られない。


403・415系(我孫子—天王台の車内より・1988)

401・403・415系は4連口での新製が続いたが、万博を機に7連口を作って最大15両編成での運行を行うことになった。
既存の4連口に新製の415系700番台を中心とした中間車を組み込んだり、クハ401+モハ1ユニット(既存もしくは新製700番台)の3両をつなげたり、様々な組み合わせの7連口ができた。700番台はモハ・サハのみの新製で、セミクロスから車端ボックスをロングシートに替えた「セミロング」車。
出力が一緒の403・415系のモハユニットが7連固定編成に混在するものもあったが、401系のモハユニットは403・415系との混在はなかった。
写真の手前の7連口は403系4連口に415系の中間車3連を挿入したタイプだ。



415系(新松戸・1988.12.4)(d)

新松戸を通過する中電。2枚目の写真は最後部が非冷房クハ401が415系のモハユニットを挟む奇妙な4連口。クハ401は401・403系のもので、415系のクハはクハ411-301から始まった。
403系登場後、国鉄の新性能電車形式では十位が0の場合は通勤形を示すことになった(以後、十位が0の近郊形は出ていない)。それに則ってモハは401系→411系、403系→413系、クハについてはクハ401→クハ411-0番台、クハ421→クハ411-100番台へ変更する計画があった。クハ411-100番台は200台まで達するため、415系のクハは300台になったわけだ。421・423系は近郊形の番号・2を使っているのでモハはいじる予定はなかったようだ。


415系(上野・1989)

宇都宮・高崎線と中電同士で並ぶ415系。
ちょうどいま『鉄道ファン』誌(以下RF誌)で415系についての連載が展開中で、形式図や写真からこのクハは411-300番台…RF誌の記事内では0'番台グループにあたる新製冷房車だと思われる。側窓がユニット窓、ベンチレータが舟形の押し込み式で、雨樋の乗務員室扉後ろにあたる部分が直線のままであることがその理由。シートピッチ拡大車の100番台は雨樋の件の箇所がT字になっている。


415系(綾瀬・1989)

こちらは先頭車の押し込み式ベンチレータが角形なので500番台車。500番台はオールロングシートで4連口のみが作られたが、のち組み替えによって700番台と合わせた車齢の若い鋼製車での7連が多く作られた。
500番台のロングシートは座面が低くて枕木方向の幅がありゆったりしていたが、着席客の足の投げだしを助長するマイナス面もあった。モケットはすでに登場している201系と同じ茶色とオレンジの2色で、袖仕切りも201系と同型。外ヅラは古くさいままだが、中はだいぶ違う雰囲気だった。700番台とともに増備途中で塗色変更が始まったので、新製時から青帯の車両もある。
この綾瀬では配色の似ている小田急9000形とも顔を合わせた。


415系1500番台(上野・1989)(f)

415系1500番台の初期車。まゆ毛部分の色やライトケースのヘッド・テールの幅の比率の変遷は211系と同じ


403系(上野・1990)

403系はデカ目で非ユニット窓。グローブ形ベンチレータで冷房が載っていれば403系とわかった。これは勝田電車区K559編成。
なお403系の最後の4連1本はベンチレータが押し込み式に変更された。これは415系の最初の4連3本も同じで、見分けがつきにくい。
デカ目の車両にはそのライトにかからないよう正面の青帯が細く、帯の天が側面と同じ高さにある。


651系特急「スーパーひたち」・401系(上野・1990)

当時何もわからず撮っていたが、タイフォンカバーが115系タイプのこのクハはクハ401-101で、1986年に115系クハ115-612を編入改造した1両だけの珍車。屋根上が写っていないのが非常に残念だが、押し込み形ベンチレータの非冷房車だ。
クハ115-612は1984(昭和59)年にサハ115-2を先頭車改造したもので、たった2年での再転身。401系編入当初はクハ401-901とされたが、1987(昭和62)年に101に改番され、3年ほどの間に4つの車号を名乗った。
401系モハは最終期に2ユニットだけ残存していたことは当時も知っていたが、調べたらその1本がこのクハ401-101を含む4連だった。写真翌年にそのラスト2ユニットは廃車となり、クハ401-101も歩みを共にし激動の一生を終えた。




415系・651系特急「スーパーひたち」(上野・1990)

K919編成は当時415系鋼製車のみの7連口の中で唯一500番台車が入らない編成だった。写真の先頭車は非ユニット窓のクハ411-303。前述した、415系の最初の4連3本のうちの2本目。この編成はその4連にサハ700番台とモハ100番台ユニットを挿入した形になっている。
デカ目をシールドビーム化しているが、タイフォンが下がり目に付いていることから、正面の青帯はデカ目状態と同じ幅になっている。また冷改時にクハ先頭の四角いベンチレータが押し込み式に変更された。



415系1500番台+403系(三河島・1991)

415系1500番台初期車と403系が組んだ8連。415系1500番台は鋼製車と混成の固定編成も存在するなど、フレキシブルな姿を見せた。なお1500番台3ドア車はロングシートで、鋼製車の中に挿入されたサハ411-1701のみがセミクロスシートだった。
私はセミクロス車のほうが楽しかったので、中電に乗る機会でもあまり1500番台に乗ることはなかった。


415系(三河島・1991)

こちらも4+4の8連で、先頭は415系100番台。前述の通りこの頃の鋼製車は500番台と700番台を優先して7連を組んでいたため、鋼製車4連口は403系と415系0〜300台のセミクロス車が集結していた。私はこの鋼製車4連口を選んで乗っていた。


403系(我孫子・1991)

うしろの4連は形式判別できず。クハ401は冷改により運転台後部に配電盤が設置され、乗務員扉後部の開閉窓が埋められた。私はこの特徴的なのっぺり感が好きだった。中央東線のスカ色115系にも同じようなものが見られたのを憶えている。


415系1500番台(上野・1991)

最後は常磐線中電の中で最高の珍車・クハ415-1901。なんと415系最初の車両から20年後の1991(平成3)年に登場した2階建て普通車で、構体は113・211系の2階建てサロに似ているが、ドアは両開きで車内は2階が2+3列・1階が2+2列のボックスシートが設置された。
その特殊性からかトレーラーなのに411ではなく415の数字が振られたが、「クハ415」という形式自体は同じ1991年に登場したJR西日本の七尾線用415系(113系を交直流化改造)にも登場している。
この車両を含んだ編成は8連で、サハ411-1601というこれまた1両だけの形式も含んでいた。列車の運用は当然専用のものが用意され、実験的な形で通勤快速を中心に走った。しかし2ドアであることが災いして乗降に時間がかかり、収容力を活かすことはできなかった。
結局2005(平成17)年7月のダイヤ改正で離脱となり、翌年廃車となった。

なお登場翌年には東海道線に2階建て10連の215系が投入されたが、やはり乗降時間がかかるのは変わらず、現在はノーマルな普通・快速列車の運用にはつかず、通勤ライナーや多客臨のみの運行になっている。

常磐線415系は現在ステンレスの1500番台のみが残存。鋼製車は2007(平成19)年ですべて姿を消してしまった。1500番台も上野口から姿を消し、友部〜原ノ町間と水戸線が現在の運用範囲となっている。一部は鋼製車とともにJR九州へ移籍した。


呼称について

1971(昭和46)年の綾瀬—我孫子間の複々線化により、常磐線の系統の呼び方は複雑になってしまった。
・綾瀬—我孫子の緩行→「各駅停車」
・上野—取手の4ドアロングシート電車→「快速」
・上野—藤代以北の普通列車→「普通」もしくは「列車」


快速線ホームの「快速・列車」表記(柏・1990)

各駅停車より快速が停車駅が少ないのは当然なのだが、快速より普通のほうがさらに停車駅が少なかった。これは普通列車にに足の遅い客車列車が混じっていたことも理由の一つかもしれない。意外にも1982(昭和57)年まで数本の客車列車が残存していた。その後も駅案内に「列車」という表記が長らく残っていた。ただし写真の柏には最後まで客車列車は停車しなかった。

普通と快速の停車駅の差は2004(平成16)年3月、三河島・南千住に普通が日中のみから終日停車に切り替わったことでようやく解消したが、普通と快速の呼び名はそのまま残り、10月になってようやく「快速」に統一された。
415系はこの記事にあるような「普通」の表示をやめて白幕に切り替え、取手で幕を回すような手間は避けたようだ。

現在のE531系・E231系のLED表示に「快速」の文字は見られない。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

1 件のコメント:

風旅記 さんのコメント...

こんにちは。
今日も興味深く拝見させて頂きました。
近郊型電車の歴史は、交直両用の401系から始まったとのこと、振り返れば興味深いですね。てっきり111系が新性能電車での近郊型の始祖だと思っていました。(確かに、111系には低運転台の車両がないことから、401系の方が古いとのこと納得です)
E531系に統一された上野側の普通列車ですが、以前の415系までの時代には、お写真にもありますように、中には古い車両が混在していたりするのを見るのも楽しいものでした。そういった個別の車両を見る楽しみが、今の綺麗な列車にはなくなってしまったのだと思います。
415系のステンレス車は想像していたよりもずいぶん早く廃車になってしまった印象です。機構は鋼製車と同じとのことで、先々長く使用するには耐えないものだったのかもしれませんが、211系が地方のローカル運用に就いて活躍し続けているのとは対照的に映ります。
また近々4月にも不通区間が少しだけ復旧するようです。常磐線で仙台まで行ける日が来ることを夢見て、いつか、また旅したい路線です。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

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