どうも今年はカゼにつきまとわれている。
気温がコロコロ変わるこの時期、撮影に行きたいものの、鼻がズルズルいってるあいだは自粛せざるを得ない。
そういえば、東西線05系初期車のなつかし写真をまだアップしていなかったことを思い出した。ところが、忘れちゃいけない「中継ぎ」が居たっけ…。
「異色」の助っ人
1987(昭和62)年10月、営団地下鉄東西線で半蔵門線用の8000系が営業運行を開始した。次世代車の05系が開発中だったが、7両編成も混じっていた東西線の混雑緩和がとにかく急がれていたのだ。
当時の半蔵門線は渋谷—半蔵門間の路線で三越前までの延伸開業を控えていたが、その増備用の8000系10連3本を一旦東西線対応仕様として入線させた。
8000系(茅場町・1988.1.17)
壁の改装前の茅場町に到着した8000系の快速。5000系のATS-P搭載前の時期であり、赤地の種別表示が方向幕に入った姿は新鮮だった。
8000系・5000系(西船橋・1988.1.17)
私は西船橋まで乗ったようだ。方向幕は5000系と同じ仕様なのがわかる。5000系は助士側窓内の快速表示器を使っていた。
8000系(大手町・1988.1.24)
67Sが定番列車だったのだろうか? 先の写真のちょうど一週間後。東西線に来たのは8012F〜8014F。短期間であるのが決まっているため、帯のカラーは半蔵門線仕様。
5000系・8000系(西船橋・1988)(d)
戸袋窓埋め込み改造の5000系と並ぶ。8000系東西線仕様は、運転台が2ハンドル、連結器は密着型となっている。
8000系(西船橋・1988)(d)
6000系・7000系後期車と同じく、8000系は冷房準備車としての製造。クーラーが載る位置にベンチレーターが2つ載るのが3系列共通のスタイル。
8000系(浦安・1988)
紫帯のため、ドア上に水色の「東西線」ステッカーが貼られた。
営団8000系・JR103系1200番台(西船橋・1988)
優雅な8000系10連と武骨な103系1200番台7連の並び。103系も冷改前。
8000系(行徳検車区付近・1988)(再掲)
行徳検車区(現・深川検車区行徳分室)への引き込み線に現れた8000系。3本目の引き込み線ができた現在、この角度からは撮れない。
8000系・5000系(行徳検車区付近・1988)(再掲)
妙典駅がないこの時代、一面の湿地だった奥の土地が区画整理の準備で整地されはじめた段階。背後の柱は3連アーチの水管橋のもの。(こちらの記事も参照)
8000系(西船橋・1988.12.1)(d)
東西線での活躍中に冷房改造された8000系。同じ頃、JR103系1200番台も簡易冷改・側面方向幕取付で変身した。
8000系(西船橋・1988)(d)
東西線待望の冷房車。…でも、最初から積んで造ればよかったじゃん、と誰もが思った。
8000系(原木中山・1988)(d)
原木中山駅に進入する。このアングルの眺めは今もほぼ変わらない。後ろの大きなマンションは建ってからそんなに時が経っていない頃だと思う。
8000系(西船橋・1988.12.1)
8000系・JR中央・総武緩行線103系(西船橋・1988.12.1)(f)
総武緩行103系との共演。JRのハンドル訓練時はこの西船橋の緩行線中線(2・3番のりば)で津田沼へ折り返す姿も見た。
8000系(原木中山・1988)
1988(昭和63)年11月から05系がデビュー、8000系の東西線での短い活躍が終わった。05系もまた、デビュー前は西船橋の中線に入ってたっけ。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
1 件のコメント:
過去記事に失礼をいたします。夕方の快速津田沼行きに高い確率で充当されていたのを覚えています。当時出た営団の記念乗車券の画像にも採用されていました。快速の表示だと何だか締まって見えると思いました。さすがに当時の総武線と並んで走っているのを見るのは違和感を感じたのを覚えています。
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