流山駅より歩きつづけ、鰭ヶ崎駅に到達。まだまだ行ける。
鰭ヶ崎→小金城趾
(鰭ヶ崎)
鰭ヶ崎(ひれがさき)駅は住宅街の中にある駅だが、一日の乗降客数は千人を切っていて流山線で最下位。それは、南流山駅が比較的近いからだ。流鉄は武蔵野線、TXと、南流山に現れる新規路線に次々と客を奪われた。
駅の西には広大な敷地の東福寺という真言宗の寺院がある。この場所は竜王が住むという池があり、それを聞いて訪れた弘法大師の前に竜が現れて「ここに寺を建てよ」と指南され、東福寺が建ったそうな。そのときに竜が落としていったのがその背びれの先で… というのが「ひれがさき」の由来の一説のようだ。
冒頭のとおりここからも乗ることなく、次の小金城趾駅を目指して歩き続ける。私が選んだのは上の写真左側(奥が馬橋方)になる住宅街の道だったが、踏切を右へ渡ってちょっと回り込むと、線路べったりの道がずっと続いていたようだ。
私の選んだ道を進むと、踏切に出る道に突き当たった。この17号踏切は警報機の赤ランプがランタン的な形の最新型で、なんだか流鉄には不釣り合いだ。
踏切を渡って前述の「線路べったりの道」に合流すると、すぐ先に流鉄随一の橋りょうが見えてきた。流山市と松戸市の境界になっている坂川を渡るガーダー橋だ。
橋のたもとに立つと、どうにか渡ってくる列車を撮れそう。背後を見ると、すでに鰭ヶ崎駅に「青空」が停車しているのが見える。
2000系「青空」(小金城趾—鰭ヶ崎)
コトコトとゆっくり「青空」が向かってくる。1枚目は踏切の向こうにいる状態。
2000系「青空」(小金城趾—鰭ヶ崎)
そして2連の列車はすぐ目の前から去っていく。とってもはかない瞬間でしかないのだ。
2000系と3000系は南を向く馬橋方の正面窓にアイシャドウが塗られていて、パンタの有無以外にも顔の印象を変える要素がある。
交換駅の小金城趾駅は目と鼻の先。当然、「流星」が来るのをじっと待つ。
5000系「流星」(小金城趾—鰭ヶ崎)
橋りょう側はもう少し横から撮りたいもんだが、いろんな制約があるのだ。
道路橋で坂川を渡って松戸市に入ると、この地点から新坂川が線路に沿った形で始まる。
(小金城趾)
流鉄唯一の交換可能駅・小金城趾(こがねじょうし)駅。駅東側にある大谷口歴史公園が、室町時代に小金城が築かれていた場所。
ここは駅がある以外は大きな店舗もなく、乗降客数も鰭ヶ崎駅をタッチの差でかわした程度。松戸市内の鉄道駅では最少。現状では列車交換の場所としての存在意義のほうが大きいようだ。
1967(昭和42)年に現地に移転した駅は写真に見える白い県営住宅と一体化していて、かつては県営住宅2階が改札口になっていた。
しかし県営住宅とは逆側に新坂川を歩道橋で渡る出入口が新設されると、改札口が元の位置では都合が悪いため、ホームへの階段の入口に改札口が移った。旧改札の窓口はいまも廃墟のように残り、利用者はただの通路となったその空間を通り抜ける。
反対に川を渡って歩道橋を降りたところはロータリー的になっているが、舗装道路がだだっ広くなっているだけ、という感じだ。
小金城趾→幸谷
ここでも駅には入らず、新坂川に沿った道で列車が来るのを待ち、川の鬱蒼とした緑と列車を絡める。
2000系「青空」(幸谷—小金城趾)
まだ日は出ていて、正面・側面に日が差している。
5000系「流星」(幸谷—小金城趾)
馬橋方へちょっと進んだところで「流星」を撮る。後追いは見事にフェンスが入ってしまった。
先頭の位置に見える踏切付近も車内から見て気になっていた場所。新坂川を渡る道路の踏切だ。
踏切は、流山行を迎えるにはいいロケーション。列車通過まで時間があるので、自販機を探して飲み物を購入。意外に近くにあったので、あまり時間は潰れなかった。
そして、潰れたのは時間ではなく日のほうだった。
(幸谷—小金城趾)
太陽の位置に雲が高く積み上がるピンポイント攻撃。オレンジの車体を照らす日光が遮られた。頭から光が放射されている…。
5000系「流星」(幸谷—小金城趾)
で、こうなった。写真手前は左カーブしているせいもあり、路盤が傾いているのだが…、ちょっと傾きすぎじゃないの? ここ。
5000系「流星」(幸谷—小金城趾)
こちらはスッキリ撮れないアングル。「青空」は踏切の反対側で待つ。
2000系「青空」(幸谷—小金城趾)
やっぱり、2連って撮り方が難しいな…。(つづく)
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
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