2010/12/17

丸ノ内線 なつかし写真・2&銀座線 なつかし写真

引き続いて丸ノ内線のなつかし写真と、撮った数が少ない銀座線のものも併せて。


方南町支線

丸ノ内線は中野坂上から南下して方南町に至る分岐線を持っている。中野富士見町駅の方南町方からはさら中野車両基地へと線路が分かれている。つまりは車庫ありきで造られた分岐線だが、千代田線の北綾瀬駅とは違い、当初から営業線として開業している。


2000形(中野坂上・撮影年月日不詳)

方南町支線は2面3線の中野坂上駅の中線から発着している。支線そのものは全線複線だが、この駅の部分だけ単線という感じ。
開業から銀座線旧形車が回されていて、当初は元・東京高速鉄道の100形、その後この2000形が用いられた。銀座線車両は車長16mと短いが、車幅も狭いため、ドアにはステップが設けられている。100形も含め、塗装はサインウェーブのない丸ノ内色だった。

支線内の列車は100形と2000形時代の途中まで2連で、のち3連での運行になって現在に至っている。出入庫を兼ねた中野富士見町発着の本線との直通列車は6連で走る。
この写真に関しては撮影時期がわかる資料がないが、90年代前半と思われる。以降の写真で用いられている「区間表示の方向幕」でない姿だ。


2000形(方南町・1993.3.7)

分岐線の終点・方南町駅。そのまま方南通りの下を西に進むと京王井の頭線の西永福や浜田山へ接続する路線にもできたが、井の頭線のシマを荒らさないために伸ばせなかったようだ。
駅は狭い島式ホームで完全な行き止まり式の独特な雰囲気。西口はホームレベルに改札がある。一見大丈夫そうなのだが6連列車は車止めの関係からホームに収まらないため、丸ノ内線内では唯一の3連列車しか来ない駅となっている。
写真のメモによると、この2101-2057-2082の3連は丸2カ月後の1993(平成5)年5月7日に廃車になったそう。支線の2000形の運用そのものもさらに2カ月後の7月6日を以て終了したので、これが支線2000形の最末期の姿。
2101はタテ長窓の原形ドアを保っていた車両だが、残念ながら閉扉状態の写真を撮っていない。貫通扉窓の左奥に見えるピンク塗りのものがそのドアだ。



2000形(方南町・1993.3.7)

2枚目の2035-2129-2036の3連は3週間後の4月1日に廃車。この頃までに残った支線2000形の中では最初の廃車だったようだ。


300・500・900形・2000形・02系(中野検車区・1993.3.7)

方南町駅から方南通りを東に向かって歩くと、中野検車区を眺められる場所に出る。
赤い電車は丸屋根の片運転台の車両が500形、運転台なしの丸屋根の車両が900形、モニタ屋根が300形で、左奥にいる3連が2000形。
300形は02系の右にいる2編成に混じっているのが見える。当時残っていたのは完全中間車化された車両で、運転台撤去・戸袋窓埋めなどが行われてイメージが変わっている。900形はその2本の右の02系のさらに右にいる編成の2・5号車で、500形より屋根の赤がきれい。900形の2次車のドア窓は当初から小窓で、Hゴムを用いない5000アルミ車のものに似た形だった。


500形(中野検車区・1993.3.7)

こちらも奥に300形の屋根が見える。中間車化された姿は面白かったのに撮らなかったのは心残り。なお400形はこの2年前にいち早く全廃となっている。


500・300形(中野坂上・1994.7.5)

2000形の撤退後、支線を引き継いだのは02系に本線を追われた500形3連6本だった。その中で1両だけ300形中間車が混じっていたのがこの編成(637-304-656)なのだが…屋根肩すら見えないアングルで撮っているなぁ。
300・500形は1995(平成7)年2月に本線から撤退(900形は前年消滅)し、その後支線では1996(平成8)年7月まで運用された。現在は支線用に装備が簡素化された02系80番台が用いられている。
300・500・900形は現在アルゼンチンのブエノスアイレスの地下鉄B線で余生を送っているのは有名。なお名古屋市営地下鉄東山・名城線の旧型車も別の路線で活躍中。


銀座線

東京メトロ銀座線は言わずと知れた日本最古の地下鉄。最初の開業は何と1927(昭和2)年だ。これは東京地下鉄道としての浅草—上野の4駅間。昭和2年と言っても日付は12月30日という年の瀬だった。その後上野から小刻みに延伸し、1934(昭和9)年に新橋まで達した。


1000形(地下鉄博物館・1990)

地下鉄博物館に保存展示されている東京地下鉄道1000形。のち営団1000形となり、営業運転では1968(昭和43)年まで用いられ、2両は小石川検車区の入換車としてその後7年生き延びた。
写真の1001号は私が幼少の頃は神田の交通博物館の敷地の端に上屋を設けて保管されていたが、その時は2000形と同じオレンジが色あせた姿になっていた。しかし、写真のように登場時はまさに黄色だった。

新橋—渋谷間は東京高速鉄道の手で建設され、1939(昭和14)年1月に新橋—虎ノ門間が完成し全通。東京地下鉄道とは軌道や車両のサイズこそ同じだが、将来の6連化を見込んだ施設を設けた地下鉄道に対して、高速鉄道は資金難から3連までの想定で建設された。高速鉄道の100形は2両が1981(昭和56)年まで中野工場の入換車として生き残り、その1両の129号が地下鉄博物館に先頭部のみのカットボディとして展示されている。
当初地下鉄道と高速鉄道は直通運転をすることになっていたが、地下鉄道側が約束を破り、京急との直通計画を持ち出した。このゴタゴタで高速鉄道は別の新橋駅を設けて開業したが、8カ月後にようやく直通運転が開始された。高速鉄道側の駅は使用が中止され、その後留置線となって現在も当時のホームの装飾の一部が残った状態で「幻の新橋駅」として眠っているのは有名。
戦下の事業統制により両社は1941(昭和16)年、「帝都高速度交通営団」という半官半民の組織に統合された。


2000・1500形(表参道・1993.7.29)

銀座線の営業用カルダン駆動車は1958(昭和33)年の両運転台1900形2両が最初で、試作車的存在だった。翌年片運転台で登場し量産されたのが2000形だが、顔は1400形(丸ノ内線300形製作のためのカルダン駆動試作車)以降、車体は1800形以降と同じスタイルで目新しさには欠けた。
2000形は在来つりかけ車を中間に挟んだ形で走り、シル・ヘッダー・リベットのある車両も混じっていた。つりかけ車は一部付随車化もされつつ私が中学生になる前まで残っていた。幼少時は片開きドアの窓が低いところまである1200・1300・1400形※が好きだった。無論当時は形式など把握していない。
ちなみにこの写真の撮影当時、ノンフラッシュ撮影がマナーであることはすでに把握していたが、カメラの設定が誤っていて光ってしまった。この写真を見るとこのあと駅員に叱られたのを思い出す。
※1400形はカルダン駆動試験終了後につりかけ駆動化されて他車に混じり営業運転に就いた。日本初のWNドライブ、営団初のノーシル・ノーヘッダー車体という肩書きもあるが、2両のみの存在だった。


2000・1500形(表参道・1993.7.29)

運転台付の2000形の中間に挿入されたのが1968(昭和43)年に1000・1100・100形の淘汰のために製作された中間車1500N形。将来の冷房化を想定し、その構造の都合から側窓の天地が2000形よりも小さくなった。小窓のドアも含め、東西線5000系を中型化・鋼製化したようなスタイルとなった。
Nを付けて区別するのは、つりかけ車に1500形が3両(1572・1573・1574)存在したため。形式のふりなおしを予定してこの中間車に再び1500番台を付けたが、結局在来車の番号を変えることなく推移。1500N形は1501〜1568が造られた。1572〜74は片開きドアで、続く1600・1700形も同じスタイルだった。
1500N形は銀座線初の2両ユニット式の電動車で、登場の1968年に30ユニット60両が一挙に造られていて、竣工日は最初の8両が4月10日、残りの52両はすべて5月7日と大雑把。
1561〜1568の8両は1981(昭和56)年に増備されたもので、冷房化は想定せず、2000形と同じスタイルで大きな側窓となった。

写真の2063F(浅草方が先の写真の2076)は最後まで残った2000・1500N形の編成の一つで、写真は実は営業終了前日の姿。中間車は4両とも1981年製の大窓1500N形で、編成全体が大窓で揃っている。


2000・1500形(表参道・1993.7.29)

こちらはさよならステッカーHM(ひらがなの「ぼくにのってくれてありがとう」が泣かせる)と側面マーキングが施された2061F。2063Fとこの2061Fが最後の2000・1500N形編成だった。こちらも中間の1500N形は1981年製の4両。つまり、最後に残った1500N形はこの増備組8両ということ。

写真の表参道駅は銀座線の外側に半蔵門線が停車するのりかえ駅。半蔵門線開業までは渋谷寄りに対向式ホームがあったが、渋谷駅での両線ののりかえが面倒(銀座線が地上3階、半蔵門線が地下)なため、この表参道では浅草方に新たにホームを造り、同一ホームで両線ののりかえができるようにされた。銀座線ホームの線路間の柱が駅の意匠としては不格好なのは、元々駅の部分ではない位置の間柱だったためだ。なお旧ホームも現ホームのすぐ先に埋められることなく残っている。
現在銀座線は16m車6両(96m)、半蔵門線は20m車10両(200m)のため、島式ホームの銀座線側はほぼ半分が柵でふさがれている。半蔵門線の発車ブザーは銀座線との区別のため他では聴けない異様な音だ。赤坂見附駅も丸ノ内線と同一ホーム接続ができるが、そちらは建設当初からの計画で造られている。


2000・1500形(外苑前・1993.7.29)

さよなら編成の側面には沿線の観光名所などがステッカーで表現された。1000形の黄色に始まった銀座線、その黄色が徐々に赤味を増し、結局オレンジ色になった。2000・1500N形は1000形からの伝統に倣って屋根部を赤く塗装していた(正面もヘッドライトの下辺あたりまで赤かった)が、晩年は車体と同じオレンジになっていた。


01系(日本橋・1989)

銀座線の鋼製車置き換えのために登場したのがこの01系。1983(昭和58)年に最初の1編成が試作車として登場、翌年から量産車が増備された。車体は千代田線6000系での量産化以降営団では定番となったアルミ製。制御装置は高周波分巻チョッパとなった。
当初非冷房車として登場。営団はトンネル冷房の設置で窓開けによる冷気取り入れを行っていたためだ。しかし、トンネル内での窓開けは騒音がすごく、風で髪も乱れ不快だった。また、冷房を搭載した乗り入れ他社の車両もわざわざ冷房を切っての入線だった。
1988(昭和63)年、営団の架線集電の各線には屋根上に立派な装置を載せた冷房車が相次いで登場。それぞれ乗り入れ先も含め地上区間を走ることも多いため、営団のトンネル内だけ涼しいというわけにはいかなかったのだ。
第三軌条式でトンネル天井が低い銀座線と丸ノ内線は取り残された。冷房装置を搭載するスペースが生み出せなかったためだが、1990(平成2)年になって薄型の冷房装置が開発され、01・02系も新製車は冷房付・在来車は冷改が行われた。

写真の日本橋駅は当初は島式1面だったが、ホーム幅がラッシュに対応しきれなくなり、壁を崩し新たに1番ホームを造って在来ホームは浅草方面行2番線専用とした。そのため在来ホームの1番線側は柵で仕切られている。こういうホーム増設は新橋駅や丸ノ内線霞ケ関駅、名古屋市・大阪市の地下鉄等各地で見られる。


01系(外苑前・1993.7.29)

01系は24Fから新製冷房車、写真の32FからLED表示器、最後の2本の37・38FがVVVFインバータ制御で登場している。なお、他線のチョッパ車のようなVVVFへの換装は行われていない。
01系は現在まで廃車なく推移してきたが、ついに置き換え系列の11000系(?)の計画が進んでいることが明らかになっていて、1本目は来年にも登場しそうな気配だ。ホームドア整備とワンマン化が絡んでいて、平成27年度までに41編成246両の整備が見込まれている。01系は37Fが1993(平成5)年製、38Fが1997(平成9)年製だが、これらも淘汰されてしまうということか…。ちなみに1500N形の増備組8両はたった12年で廃車になっている。造られたのは01系登場の2年前だった。


01系(神田・2007.12.26・mb)

ケイタイしかなかったころにたまたま出くわしたので撮ったもの。開業80周年で1000形風のカラーリングになった01系。この以前には両先頭車だけ黄色にした装飾を施した別のラッピング車が走った時代もある。


01系(日本橋・2008.5.14・mb)

知ってます。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2 件のコメント:

風旅記 さんのコメント...

こんばんは。
地下鉄はどうしても関心が向かず、近年初めて撮りました。ただ改めて見てみますと、自分の生活にも密着していて、言葉通りの身近な存在、将来いつか懐かしくなる日も来るのかなと思っています。
銀座線は渋谷駅がこの先も変化していくと思いますし、車両ももうすぐ全車の置き換え完了ですね。丸ノ内線も、分岐線が6両編成で運行されるようになるそうです。方南町駅の懐かしい雰囲気は、改装されてしまうかもしれませんね。
お写真、楽しませて頂きました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

ひみつ さんのコメント...

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http://himitsu86.blogspot.jp/2014/02/142152.html

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