総武快速線なつかし写真その2。
113系(錦糸町・1989)
長大編成をくねらせて錦糸町に到着。
113系(錦糸町付近?・1991)
緩行の車内から撮ったもの。
113系(東京・1989)
更新工事を受けて黒Hゴム化されたクハ。
113系(横浜—保土ヶ谷・1992.9.6)
相鉄の平沼橋駅で撮った写真。付属なしの11両編成だ。クリーム色の中の黒Hゴムは顔が締まってよい。幕張区の黄色い編成札もいいアクセントになっている。
そういえば、これだけ「横須賀線」としての写真になるか…。横須賀線の写真はこれくらいしか撮ってないかな?
113系(千葉・1992.9.27)
千葉駅はハの字に開いた独特な線形の駅。停まっているのは総武本線用ホーム、画面右は成田線用ホームだ。
113系(物井・1992.9.27)
成田へ向かっていくと風景は徐々に緑色が多くなる。写真当時の物井駅は牧歌的なムードだったが、今は橋上駅舎と上屋付のホームで近代的な駅に生まれ変わった。
113系(千葉・1990)
2階建てグリーン車・サロ124が入った編成。
東海道線と横総の211系・113系に2階建てグリーン車を入れるという話を聞いたときは驚いた。そして当時の雑誌では「113系用は鋼製車になる見込み」とも書かれていた。しかしフタを開けてみれば完全な211系スタイルのステンレスカー。形式は211系がサロ212(車掌室付)・213(トイレ付)、113系がサロ124(車掌室付)だが、外目には大きな違いはない。
東海道線のみのちにサロ125(トイレ付)が追投入されている。
113系(佐倉・1992.9.27)
113系(東船橋・1994.4.17)
私は当時から「きっと車齢が若いから、113系が廃車になってもサロ124は211系に転用されるんだろうな」と考えていたが、現実になった。
形式は「125系」のようだが、何でだかは知らない。ひとつは、既存のサロの形式が110・111・112・113と111・113系の数字からすべて使われているからだろう。ただし登場時点でサロ112(一段下降窓のサロ152・サロ163からの転用)はすでになくなっている。
113系(津田沼・1994.4.17)
サイボーグ113系。
当時、各形式の先頭車にこうした前面補強が施された。下部のアンチクライマーが仰々しい。ヘッドライト上にあった手すりが太くなったようなものは衝撃吸収板だそう。
補強のきっかけはまさにこの総武快速が走る成田線での踏切事故で運転士が亡くなったことによる。
平らな板がドーンと貼られた103系ははじめから塗装だったが、いわゆる「東海顔」の車両達は最初はこんな鉄仮面状態だった。次の入場時に順次塗装された。
写真の編成は特急形から転用のサロが見える。屋根が低いため、幕部の紺の面積が一般車より狭いのが特徴。
総武快速ではないが、さいごに鉄仮面車両の写真をついでに。
169系(立川・1993.11.6)
急行色の鉄仮面は強烈だった。ジャンパ栓部分はアンチクライマーが欠けている。
165系(大宮・1995.10.30)
ピンクと紺が派手な「モントレー色」の165系。上の2例と違い、鉄仮面に側面帯の延長がしっかり回り込んでいるのが特徴。
165系「なのはな」(大宮・1995.10.30)
モントレーと同日に大宮に現れた「なのはな」。総武快速とは幕張電車区で兄弟的存在でもあった。
なのはなも例にもれず鉄仮面になったが、これはその後塗装された姿。鉄仮面時代はモントレー同様、帯がそのままの形で表現されていた。要は、ベースのレモン色の分だけが鉄仮面の地肌丸出しだった。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
2009/10/31
総武快速線 なつかし写真・1
今回は総武快速線。緩行線をすでにやっておきながら、こちらはノータッチだったので、今さら。
横須賀線の文字が入らないのは、そっちでの写真がほぼないからだ。
現在の「総武快速線」の列車は総武線としての東京—成東間のほか、成田線香取・成田空港、鹿島線鹿島神宮、外房線上総一ノ宮、内房線君津まで入る列車がある。
東京以西は「横須賀線」の久里浜まで直通。実際は東京—鶴見(通過)間が東海道線の別線、鶴見—大船間は東海道線と並行した複々線で、大船—久里浜間のみが正式な横須賀線だ。
私が物心ついてからは外房線大原行や内房線木更津行が当たり前のように走っていたが、最近知らぬ間に消えてしまった。
現在は京葉線の直通列車が外房線勝浦(発着)・内房線上総湊(発のみ)からあって、総武快速より房総の奥へ入っている。
反対側は東京行か品川行という時代があったのを憶えていて、横須賀線が地上の東京駅へ入っていた時代の末期だろう。
ちなみに当ブログで行先の表現を「東京行」と、“行き”ではなく“行”ですませているのは、この総武線快速の側面方向幕の一部に「東 京行」という書式があったからだ(編成のクハだけこれになってるのもよくあった)。これは写真やコレクションで今も見ることができる昭和の列車のホーロー製サボでもおなじみ。
113系
1972(昭和47)年、東京—錦糸町間の地下線新設と錦糸町—津田沼間の複々線化により快速列車用として投入された。
横須賀線とつながった1980(昭和55)年にはグリーン車が登場。
1999(平成11)年まで27年間に渡って総武快速線の顔として活躍した。
113系(本八幡・1991)
東京方4連+千葉方サロ2両入り11連のスタンダードな15連。ただ当時は付属なしの11連で運行の列車も多かった。
サロは狭幅ユニット窓が並ぶものや特急形から改造の固定窓(一部スウィング窓改造)のものなど様々だが、写真の編成は前者のみの構成で編成美を保っている。
113系・183系「特急さざなみ」(東京・1988)(d)
東京駅地下ホームの113系。ヘッドマークは当ブログでは何度か出てきているJR1周年記念のもの。
地上ホームと離れた位置にある地下ホームは、のりかえの場合はエスカレーターを何本も乗り継いで移動する。
番号も地上と切り離して「地下1〜4番線」と名付けられている。のち京葉線も別の地下ホームで乗り入れ、「京葉1〜4番線」まで登場した。両地下ホーム同士ののりかえは大変だ。
113系・183系「ホームライナー」(東京・1988.10.4)(f)
同じく183系との並び。183系のクハは非貫通形1000番台車改造の1500番台。
113系(錦糸町・1988)
錦糸町には本線脇に電留線があり、今もE217系の寝床になっている。
背後のロッテ会館は現在は取り壊され、新たに来年会館予定のロッテシティホテルが建設中。ロッテ会館にはボウリング場とバッティングセンターがあり、ボウリングの順番を待つ間に下のフロアでバッティングをして時間つぶしができた。バッティングエンターはビルの1フロアにすぎず、フライになる当たりを打つとすぐ天井に当たった(蒲田や水道橋にも似たような施設がある)。ここで練習を続けるとライナーやゴロを打てるようになったかもしれない。
113系(市川・1988)(d)
113系(市川・1989)(d)
113系(市川・1989)
113系(市川・1990)
私は総武線だと西船橋が最寄りになるので、東京から快速に乗ってきた場合は市川で緩行にのりかえる。そんなわけで、市川で撮った写真が多いみたいだ。
市川は名前こそ市の名前だが、市役所は隣の本八幡にあったりする。
この市川は快速線の両外側に追い抜き線が設けられていて、特急待避に使われている。待避中には途中で抜いた緩行に追い抜かれるという、ウサギとカメ状態が起きる。待避のときは結構長く停まるんだな、これが。
89年の写真のとおり、渡り板の裏面が紺に塗られている車両があった。
113系(新小岩・1989)
荒川・中川放水路を渡ってきた113系。新小岩の西方にはその鉄橋があり、緩行、快速のそれぞれ複線橋梁と、貨物用の単線橋梁の3本の長大トラスが並んでいる。
113系(新小岩・1989)
右側で新小岩操へ線路が分かれ始めている貨物線は非電化で亀戸—新小岩操間で単線で並行していて、亀戸で本線から南へ分かれて小名木川・越中島貨物駅まで通じている。新小岩操からは電化の新金線が伸び、常磐線金町までつながっている。団臨の抜け道ルートとして有名。
113系(船橋・1989)
新小岩や東京での写真の列車と同じ09運用。ほんと、偶然。下り列車のグリーン車も見える。
113系(東船橋・1989)(f)
東船橋にて。編成をきちんと入れようなんて考えはなしに撮っている。
113系「白い砂」(錦糸町・1989)
夏休みの房総快速。「白い砂」は外房線の列車で、行先は安房鴨川だったと思う。
113系「青い海」(西船橋・1988)
こちらは内房線の「青い海」。近づいた所で撮れないアングルで遠目に撮ったやつを大胆にトリミング。
西船橋の貨物側線が残っている頃で、いつも留置されていた貨車(ホキ?)が先頭車の横に少しだけ見える。
113系「青い海」(錦糸町・1989)
下りは館山行だったと思う。六角形のヘッドマークは153・165系で走っていた房総急行のそれと同じ形だ。
それにしても、夜の山に雪が降るスキー臨のような絵だな。土地も季節も正反対だ。
113系(錦糸町・1989)
「白い砂」「青い海」を待っているときにやって来た上り列車の後部。なんと「総武線」の幕を出していた。同じ目的の知らない者同士が数人いたんだけど、みんな気づいてパシャパシャ。
すると、車掌氏が降りてきて「これ、珍しいでしょ?」と。一同、「はぁ」というしかなく。
少々の停車時間があったこともあり、今度はその車掌自ら幕を回し始め、プチ撮影会開始。
113系幕プチ撮影会(錦糸町・1989)
片手を伸ばし、手動の幕を回しまくる車掌氏。もちろん、そこにいた同志たちが撮り終わったのを見計らって次のコマを出している。
「横須賀線」は横須賀線の東京地上ホーム乗り入れ時代に、「快速」は同時期の総武快速で表示されていたもの。両者が直通するようになって「横須賀線-総武線」になった。
「急行」はそう意外でもなかったが、「特別快速」が入っていたのには驚いた。
発車時刻になると、車掌氏はきちんと「総武線」に戻して発車していったのだった。…きちんとしてないわい!
列車が東京行だったか横須賀線直通だったか記憶は定かではないが、東京駅まではたしかに「総武線」だ。でも、誰かが社に報告したらあの車掌氏は注意を受けたかもなぁ。我々は「面白いものを撮らせてもらってありがとう」の想いしかないわけだが。
写真が縦位置なのは言わずもがな、ホームの余りが少なく引きの画面が不可能だったから。
この錦糸町で撮った写真に限り、正面のタイフォンの位置が高い1500番台なのも不思議。(つづく)
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
横須賀線の文字が入らないのは、そっちでの写真がほぼないからだ。
現在の「総武快速線」の列車は総武線としての東京—成東間のほか、成田線香取・成田空港、鹿島線鹿島神宮、外房線上総一ノ宮、内房線君津まで入る列車がある。
東京以西は「横須賀線」の久里浜まで直通。実際は東京—鶴見(通過)間が東海道線の別線、鶴見—大船間は東海道線と並行した複々線で、大船—久里浜間のみが正式な横須賀線だ。
私が物心ついてからは外房線大原行や内房線木更津行が当たり前のように走っていたが、最近知らぬ間に消えてしまった。
現在は京葉線の直通列車が外房線勝浦(発着)・内房線上総湊(発のみ)からあって、総武快速より房総の奥へ入っている。
反対側は東京行か品川行という時代があったのを憶えていて、横須賀線が地上の東京駅へ入っていた時代の末期だろう。
ちなみに当ブログで行先の表現を「東京行」と、“行き”ではなく“行”ですませているのは、この総武線快速の側面方向幕の一部に「東 京行」という書式があったからだ(編成のクハだけこれになってるのもよくあった)。これは写真やコレクションで今も見ることができる昭和の列車のホーロー製サボでもおなじみ。
113系
1972(昭和47)年、東京—錦糸町間の地下線新設と錦糸町—津田沼間の複々線化により快速列車用として投入された。
横須賀線とつながった1980(昭和55)年にはグリーン車が登場。
1999(平成11)年まで27年間に渡って総武快速線の顔として活躍した。
113系(本八幡・1991)
東京方4連+千葉方サロ2両入り11連のスタンダードな15連。ただ当時は付属なしの11連で運行の列車も多かった。
サロは狭幅ユニット窓が並ぶものや特急形から改造の固定窓(一部スウィング窓改造)のものなど様々だが、写真の編成は前者のみの構成で編成美を保っている。
113系・183系「特急さざなみ」(東京・1988)(d)
東京駅地下ホームの113系。ヘッドマークは当ブログでは何度か出てきているJR1周年記念のもの。
地上ホームと離れた位置にある地下ホームは、のりかえの場合はエスカレーターを何本も乗り継いで移動する。
番号も地上と切り離して「地下1〜4番線」と名付けられている。のち京葉線も別の地下ホームで乗り入れ、「京葉1〜4番線」まで登場した。両地下ホーム同士ののりかえは大変だ。
113系・183系「ホームライナー」(東京・1988.10.4)(f)
同じく183系との並び。183系のクハは非貫通形1000番台車改造の1500番台。
113系(錦糸町・1988)
錦糸町には本線脇に電留線があり、今もE217系の寝床になっている。
背後のロッテ会館は現在は取り壊され、新たに来年会館予定のロッテシティホテルが建設中。ロッテ会館にはボウリング場とバッティングセンターがあり、ボウリングの順番を待つ間に下のフロアでバッティングをして時間つぶしができた。バッティングエンターはビルの1フロアにすぎず、フライになる当たりを打つとすぐ天井に当たった(蒲田や水道橋にも似たような施設がある)。ここで練習を続けるとライナーやゴロを打てるようになったかもしれない。
113系(市川・1988)(d)
113系(市川・1989)(d)
113系(市川・1989)
113系(市川・1990)
私は総武線だと西船橋が最寄りになるので、東京から快速に乗ってきた場合は市川で緩行にのりかえる。そんなわけで、市川で撮った写真が多いみたいだ。
市川は名前こそ市の名前だが、市役所は隣の本八幡にあったりする。
この市川は快速線の両外側に追い抜き線が設けられていて、特急待避に使われている。待避中には途中で抜いた緩行に追い抜かれるという、ウサギとカメ状態が起きる。待避のときは結構長く停まるんだな、これが。
89年の写真のとおり、渡り板の裏面が紺に塗られている車両があった。
113系(新小岩・1989)
荒川・中川放水路を渡ってきた113系。新小岩の西方にはその鉄橋があり、緩行、快速のそれぞれ複線橋梁と、貨物用の単線橋梁の3本の長大トラスが並んでいる。
113系(新小岩・1989)
右側で新小岩操へ線路が分かれ始めている貨物線は非電化で亀戸—新小岩操間で単線で並行していて、亀戸で本線から南へ分かれて小名木川・越中島貨物駅まで通じている。新小岩操からは電化の新金線が伸び、常磐線金町までつながっている。団臨の抜け道ルートとして有名。
113系(船橋・1989)
新小岩や東京での写真の列車と同じ09運用。ほんと、偶然。下り列車のグリーン車も見える。
113系(東船橋・1989)(f)
東船橋にて。編成をきちんと入れようなんて考えはなしに撮っている。
113系「白い砂」(錦糸町・1989)
夏休みの房総快速。「白い砂」は外房線の列車で、行先は安房鴨川だったと思う。
113系「青い海」(西船橋・1988)
こちらは内房線の「青い海」。近づいた所で撮れないアングルで遠目に撮ったやつを大胆にトリミング。
西船橋の貨物側線が残っている頃で、いつも留置されていた貨車(ホキ?)が先頭車の横に少しだけ見える。
113系「青い海」(錦糸町・1989)
下りは館山行だったと思う。六角形のヘッドマークは153・165系で走っていた房総急行のそれと同じ形だ。
それにしても、夜の山に雪が降るスキー臨のような絵だな。土地も季節も正反対だ。
113系(錦糸町・1989)
「白い砂」「青い海」を待っているときにやって来た上り列車の後部。なんと「総武線」の幕を出していた。同じ目的の知らない者同士が数人いたんだけど、みんな気づいてパシャパシャ。
すると、車掌氏が降りてきて「これ、珍しいでしょ?」と。一同、「はぁ」というしかなく。
少々の停車時間があったこともあり、今度はその車掌自ら幕を回し始め、プチ撮影会開始。
113系幕プチ撮影会(錦糸町・1989)
片手を伸ばし、手動の幕を回しまくる車掌氏。もちろん、そこにいた同志たちが撮り終わったのを見計らって次のコマを出している。
「横須賀線」は横須賀線の東京地上ホーム乗り入れ時代に、「快速」は同時期の総武快速で表示されていたもの。両者が直通するようになって「横須賀線-総武線」になった。
「急行」はそう意外でもなかったが、「特別快速」が入っていたのには驚いた。
発車時刻になると、車掌氏はきちんと「総武線」に戻して発車していったのだった。…きちんとしてないわい!
列車が東京行だったか横須賀線直通だったか記憶は定かではないが、東京駅まではたしかに「総武線」だ。でも、誰かが社に報告したらあの車掌氏は注意を受けたかもなぁ。我々は「面白いものを撮らせてもらってありがとう」の想いしかないわけだが。
写真が縦位置なのは言わずもがな、ホームの余りが少なく引きの画面が不可能だったから。
この錦糸町で撮った写真に限り、正面のタイフォンの位置が高い1500番台なのも不思議。(つづく)
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
2009/10/26
千代田線・常磐緩行線 なつかし写真
今回はグリーン・トレインズのなつかし写真。
北綾瀬支線
営団5000系(綾瀬・1989)
北綾瀬支線用ステンレスの5000系3連。0番線はホームドアもそこまでの柵もなくスッキリしている。
運行番号幕は東西線はすでに紺色地化が完了していたが、こちらは昔のままの白地幕。この当時でもレトロ感があった。千代田線5000系は正面の車号プレートがなかったが、この頃は白地緑文字のステッカーが貼られていた。
この編成はのち冷改されたが、東西線5000系のような界磁添加励磁制御化はされなかった。1999(平成11)年に東西線を退いてきたアルミ車と入れ替わり引退した。
営団6000系ハイフン車(綾瀬・1988)
6000系ハイフン車は1968(昭和43)年に登場した営団初のチョッパ制御・6000系の試作車。当初から今まで3連のままだ。
登場当時は足回りをカバーで覆っていたり、帯の正面回り込みはライトまでだったりと姿が違っていた。写真をよーく見ると、ライトをくるむ部分とライトの間とで帯の色が違い、間の帯が付け足されたのがわかる。
東西線の地上区間で試運転を繰り返したのち千代田線開業で綾瀬に移り、6001・2・3だった車号は6000-1・-2・-3に改番。7000系用チョッパやVVVFの試験車としても活用された。
綾瀬検車区の回送線の旅客化の要望が地元から出て、それが実現、1979(昭和54)年に北綾瀬駅が設けられた。6000系ハイフン車は足回りを5000系と同じ抵抗制御に変更し、この北綾瀬支線の営業運転に就いた。
写真の当時、ドアは登場時以来の5000系然としたHゴム付窓だった。
現在は冷改されているほかそのドアも交換、前面の2枚の窓のサイズが拡大され、窓の下のクマが量産車並に狭くなっている。
営団6000系
営団6000系(綾瀬・1988)
綾瀬の中線に入った6000系1次車。写っていないのが残念だが、側窓は二段の小さいもの、非冷房で屋根上にはベンチレーターが並ぶ。
東京の地下鉄とその直通先の境界駅でホームに挟まれた1線の中線を配した駅はここと日比谷線北千住だけ。ただし写真当時の日比谷線・東武の北千住はまだ地上の2面4線のみ。
営団6000系(読売ランド前—百合ヶ丘・1991)
二段窓・冷改の1次車が小田急線を走る。小田急線沿線に神奈川県綾瀬市があるが「綾瀬」がつく駅はなく、千代田線の綾瀬駅行はちょっと紛らわしい。
写真当時の小田急直通列車はすべて小田急線内準急だった。しかし準急の通過運転は代々木上原—登戸間だけ。登戸—本厚木は各駅停車だと50〜60分前後かかるので、千代田線から本厚木まで走らせるメリットはあまり感じない。
営団6000系(本厚木・1991.3.15)
小田急本厚木始発の準急我孫子行に入った2次車。
千代田線直通列車が多摩急行主体(平日朝唐木田発は急行)になった現在、柿生以遠—綾瀬間の列車はすべて小田急線内準急で平日本厚木発4本・海老名発1本・綾瀬発2本、休日本厚木発2本と少数にとどまっている。すべて小田急車のため、柿生以遠—常磐線相互間の列車は存在しない。
小田急7000形・営団6000系(向ヶ丘遊園・1991)
LSEと並んだ6000系4次車とその出発の後追い。特急車と通勤車の車体構造の違いがはっきりわかる。
方向幕は紺地・英字入りのものに更新されている。
営団6000系(我孫子・1991)
前記事に登場した5次車29編成(前回記事の取手行)の18年前の姿。車体表記のほかSマークや方向幕、その周りも緑色で、モノトーンになっている。
車体がほぼ同じ有楽町線7000系の車体表記類はラインカラーのゴールドでは可読性に欠けるためか紺色が用いられている。
営団6000系(新松戸・1988.12.4)(d)
6次車33・34編成は6000系では初めて冷房搭載で造られた。Hゴムも初めから黒。
画質が悪いから信じられないが、この写真は落成年のものだ。
営団6000系(我孫子・1991)
7次車35編成は6000系の最後の製造編成。試作車登場から22年経った1990(平成2)年の登場で、すでに日比谷線03系・東西線05系が登場している時代だ。
同時期増備の7000系・半蔵門線8000系とともに、03・05系同様のLED案内装置が車内各ドア上に設置されている。更新車でこれを取り付けたものは千鳥配置で、すべてのドア上にあるのはこの35編成のみ。帯は厚みのあるものからフィルム貼付に替わり、方向幕も紺地・ローマ字入りで登場と印象が変わった。
今後千代田線は新系列「16000系」(…と言われている)の製作が決まっている。2011(平成23)年の小田急のD-ATS-P化に対応した車両となる。この新車投入とあわせて6000系改造により対応編成を揃えていくが、入場により予備車が不足することになり、東西線05系初期車を千代田線に回す構想がある。
そうでなくても千代田線は制御器更新や一部車両の不調などで頭数が足りず、昨年の今頃は東西線移籍のため青帯を巻いた07系第1編成が3カ月ほど千代田線を走っていた。
東西線はラッシュ対策でワイドドア車を再び製作することになり、これが副都心線10000系をベースにした新系列・15000系と発表された。投入予定の13本は05系初期車と同じ数で、05系の余剰車もしくは廃車が出る流れだ。
ほかにも、10000系増備で余る7000系や、E233系2000番台増備で余るJR203系を活かす、なんて話も出ているようだ。
JR203系
203系(馬橋・1988.1.17)
203系(新松戸・1988.12.4)(d)
ともに21年前のマト51編成の姿。量産先行車で、車号がプレート表示となっているのが特徴。
現在は運行番号表示とテールライトがLEDになったが、ほかは大きな変化はない。
馬橋の写真で日光の裏に写っているのは総武流山電鉄(現・流鉄)の「銀河」だ。
203系(我孫子・1991)
我孫子で発車を待つ量産車のトップ・マト52編成。写真左は取手発各駅停車用ホームで日中は使われず、当時も今も寂れている。
203系・103系1000番台(柏・1990.5.6)
新旧千代田線直通車の並び。千代田線は営団6000系・小田急9000形がともに未来的な顔とチョッパ制御を備えた先進的な車両であるのに対し、旧態依然の国鉄103系1000番台は厄介者扱いされるようになった。抵抗制御の足回りからの発熱はトンネル内の温度を上昇させ、北千住—湯島間の長い上下線別単線トンネルでは自然通風式の抵抗器の冷却が不十分で、オーバーヒートによる故障も多く発生したという。電力回生もできないためチョッパ車より電気代がかさんだ。
営団側の要望で国鉄が新たに用意したのが201系ベースのチョッパ車・203系だった。
103系1000番台は順次快速用に転用されエメラルドグリーン1色に塗り替えられた。また西日本のローカル線用に105系に改造された車両も多く、常磐線から103系が去った今も、和歌山線などで103系地下鉄顔が生き残っている。
なお、快速用になったうち1編成だけ東西線直通車の増強用に再転用され、奇跡の地下鉄復帰を果たした。
JR207系900番台
207系900番台(綾瀬・1988)
写真を撮り始めて間もないころの1枚。見事に足回りが切れている。
前記事に書いたとおり正面のJRマークは203系同様ガラスに黒シールを貼った上につけてあったが、現在は黒シールはなくなりガラスが見えている。
207系900番台(柏—北柏?の上り快速車内より・1988)
207系900番台(松戸・1991)
松戸駅を後にして入庫する207系。
前の写真でもそうだが、取手方先頭車のブラックフェイス下辺のラインのズレが非常に気になる。とくに貫通扉と運転台側との段違いが顕著だ。扉が歪んでるのかな?
小田急1000形
小田急1000形「初詣&初日の出号」(綾瀬・1991.1.1)
正式には「初詣&初日の出号」の送り込み列車か。
綾瀬始発で片瀬江ノ島まで直通する元日の臨時列車。この列車に乗るために武蔵野線経由で綾瀬へ出た。のりかえの新松戸のホームで新年を迎えたのははっきり憶えている。
列車は6+4の片方が江ノ島、片方は伊勢原に行ったんだったと思うが… なにしろこの1枚と、そっくりなアングルの片瀬江ノ島駅での「回送」表示の写真しか撮れていない。綾瀬で「片瀬江ノ島」表示を撮れていないのは、着席のためドア位置に並んでいたから。
小田急1000形「初詣&初日の出号」(片瀬江ノ島・1991.1.1)
小田急の写真はそこそこの枚数があって千代田線直通列車の写真を探したんだけど、出てきたのはこの列車のものだけだった。小田急で唯一運行番号を表示するのが千代田線直通列車だ。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)
北綾瀬支線
営団5000系(綾瀬・1989)
北綾瀬支線用ステンレスの5000系3連。0番線はホームドアもそこまでの柵もなくスッキリしている。
運行番号幕は東西線はすでに紺色地化が完了していたが、こちらは昔のままの白地幕。この当時でもレトロ感があった。千代田線5000系は正面の車号プレートがなかったが、この頃は白地緑文字のステッカーが貼られていた。
この編成はのち冷改されたが、東西線5000系のような界磁添加励磁制御化はされなかった。1999(平成11)年に東西線を退いてきたアルミ車と入れ替わり引退した。
営団6000系ハイフン車(綾瀬・1988)
6000系ハイフン車は1968(昭和43)年に登場した営団初のチョッパ制御・6000系の試作車。当初から今まで3連のままだ。
登場当時は足回りをカバーで覆っていたり、帯の正面回り込みはライトまでだったりと姿が違っていた。写真をよーく見ると、ライトをくるむ部分とライトの間とで帯の色が違い、間の帯が付け足されたのがわかる。
東西線の地上区間で試運転を繰り返したのち千代田線開業で綾瀬に移り、6001・2・3だった車号は6000-1・-2・-3に改番。7000系用チョッパやVVVFの試験車としても活用された。
綾瀬検車区の回送線の旅客化の要望が地元から出て、それが実現、1979(昭和54)年に北綾瀬駅が設けられた。6000系ハイフン車は足回りを5000系と同じ抵抗制御に変更し、この北綾瀬支線の営業運転に就いた。
写真の当時、ドアは登場時以来の5000系然としたHゴム付窓だった。
現在は冷改されているほかそのドアも交換、前面の2枚の窓のサイズが拡大され、窓の下のクマが量産車並に狭くなっている。
営団6000系
営団6000系(綾瀬・1988)
綾瀬の中線に入った6000系1次車。写っていないのが残念だが、側窓は二段の小さいもの、非冷房で屋根上にはベンチレーターが並ぶ。
東京の地下鉄とその直通先の境界駅でホームに挟まれた1線の中線を配した駅はここと日比谷線北千住だけ。ただし写真当時の日比谷線・東武の北千住はまだ地上の2面4線のみ。
営団6000系(読売ランド前—百合ヶ丘・1991)
二段窓・冷改の1次車が小田急線を走る。小田急線沿線に神奈川県綾瀬市があるが「綾瀬」がつく駅はなく、千代田線の綾瀬駅行はちょっと紛らわしい。
写真当時の小田急直通列車はすべて小田急線内準急だった。しかし準急の通過運転は代々木上原—登戸間だけ。登戸—本厚木は各駅停車だと50〜60分前後かかるので、千代田線から本厚木まで走らせるメリットはあまり感じない。
営団6000系(本厚木・1991.3.15)
小田急本厚木始発の準急我孫子行に入った2次車。
千代田線直通列車が多摩急行主体(平日朝唐木田発は急行)になった現在、柿生以遠—綾瀬間の列車はすべて小田急線内準急で平日本厚木発4本・海老名発1本・綾瀬発2本、休日本厚木発2本と少数にとどまっている。すべて小田急車のため、柿生以遠—常磐線相互間の列車は存在しない。
小田急7000形・営団6000系(向ヶ丘遊園・1991)
LSEと並んだ6000系4次車とその出発の後追い。特急車と通勤車の車体構造の違いがはっきりわかる。
方向幕は紺地・英字入りのものに更新されている。
営団6000系(我孫子・1991)
前記事に登場した5次車29編成(前回記事の取手行)の18年前の姿。車体表記のほかSマークや方向幕、その周りも緑色で、モノトーンになっている。
車体がほぼ同じ有楽町線7000系の車体表記類はラインカラーのゴールドでは可読性に欠けるためか紺色が用いられている。
営団6000系(新松戸・1988.12.4)(d)
6次車33・34編成は6000系では初めて冷房搭載で造られた。Hゴムも初めから黒。
画質が悪いから信じられないが、この写真は落成年のものだ。
営団6000系(我孫子・1991)
7次車35編成は6000系の最後の製造編成。試作車登場から22年経った1990(平成2)年の登場で、すでに日比谷線03系・東西線05系が登場している時代だ。
同時期増備の7000系・半蔵門線8000系とともに、03・05系同様のLED案内装置が車内各ドア上に設置されている。更新車でこれを取り付けたものは千鳥配置で、すべてのドア上にあるのはこの35編成のみ。帯は厚みのあるものからフィルム貼付に替わり、方向幕も紺地・ローマ字入りで登場と印象が変わった。
今後千代田線は新系列「16000系」(…と言われている)の製作が決まっている。2011(平成23)年の小田急のD-ATS-P化に対応した車両となる。この新車投入とあわせて6000系改造により対応編成を揃えていくが、入場により予備車が不足することになり、東西線05系初期車を千代田線に回す構想がある。
そうでなくても千代田線は制御器更新や一部車両の不調などで頭数が足りず、昨年の今頃は東西線移籍のため青帯を巻いた07系第1編成が3カ月ほど千代田線を走っていた。
東西線はラッシュ対策でワイドドア車を再び製作することになり、これが副都心線10000系をベースにした新系列・15000系と発表された。投入予定の13本は05系初期車と同じ数で、05系の余剰車もしくは廃車が出る流れだ。
ほかにも、10000系増備で余る7000系や、E233系2000番台増備で余るJR203系を活かす、なんて話も出ているようだ。
JR203系
203系(馬橋・1988.1.17)
203系(新松戸・1988.12.4)(d)
ともに21年前のマト51編成の姿。量産先行車で、車号がプレート表示となっているのが特徴。
現在は運行番号表示とテールライトがLEDになったが、ほかは大きな変化はない。
馬橋の写真で日光の裏に写っているのは総武流山電鉄(現・流鉄)の「銀河」だ。
203系(我孫子・1991)
我孫子で発車を待つ量産車のトップ・マト52編成。写真左は取手発各駅停車用ホームで日中は使われず、当時も今も寂れている。
203系・103系1000番台(柏・1990.5.6)
新旧千代田線直通車の並び。千代田線は営団6000系・小田急9000形がともに未来的な顔とチョッパ制御を備えた先進的な車両であるのに対し、旧態依然の国鉄103系1000番台は厄介者扱いされるようになった。抵抗制御の足回りからの発熱はトンネル内の温度を上昇させ、北千住—湯島間の長い上下線別単線トンネルでは自然通風式の抵抗器の冷却が不十分で、オーバーヒートによる故障も多く発生したという。電力回生もできないためチョッパ車より電気代がかさんだ。
営団側の要望で国鉄が新たに用意したのが201系ベースのチョッパ車・203系だった。
103系1000番台は順次快速用に転用されエメラルドグリーン1色に塗り替えられた。また西日本のローカル線用に105系に改造された車両も多く、常磐線から103系が去った今も、和歌山線などで103系地下鉄顔が生き残っている。
なお、快速用になったうち1編成だけ東西線直通車の増強用に再転用され、奇跡の地下鉄復帰を果たした。
JR207系900番台
207系900番台(綾瀬・1988)
写真を撮り始めて間もないころの1枚。見事に足回りが切れている。
前記事に書いたとおり正面のJRマークは203系同様ガラスに黒シールを貼った上につけてあったが、現在は黒シールはなくなりガラスが見えている。
207系900番台(柏—北柏?の上り快速車内より・1988)
207系900番台(松戸・1991)
松戸駅を後にして入庫する207系。
前の写真でもそうだが、取手方先頭車のブラックフェイス下辺のラインのズレが非常に気になる。とくに貫通扉と運転台側との段違いが顕著だ。扉が歪んでるのかな?
小田急1000形
小田急1000形「初詣&初日の出号」(綾瀬・1991.1.1)
正式には「初詣&初日の出号」の送り込み列車か。
綾瀬始発で片瀬江ノ島まで直通する元日の臨時列車。この列車に乗るために武蔵野線経由で綾瀬へ出た。のりかえの新松戸のホームで新年を迎えたのははっきり憶えている。
列車は6+4の片方が江ノ島、片方は伊勢原に行ったんだったと思うが… なにしろこの1枚と、そっくりなアングルの片瀬江ノ島駅での「回送」表示の写真しか撮れていない。綾瀬で「片瀬江ノ島」表示を撮れていないのは、着席のためドア位置に並んでいたから。
小田急1000形「初詣&初日の出号」(片瀬江ノ島・1991.1.1)
小田急の写真はそこそこの枚数があって千代田線直通列車の写真を探したんだけど、出てきたのはこの列車のものだけだった。小田急で唯一運行番号を表示するのが千代田線直通列車だ。
(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)