2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2013/04/15

営団東西線05系 なつかし写真・1

どうも土日のどちらかに強風が吹く週末が続いている。
風の吹いてないほうの日は別の用事があったりして、しばらく撮影に出かけていない。
…ということで、ひさびさになつかし写真記事を。

マイラインである東京メトロ東西線のなつかし写真は、JR301系JR103系5000系5000系アルミ車8000系と記事を立ててきたが、ラストの05系がまだであった。


1988

1988(昭和63)年、営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線の新形式として登場したのが05系。製造前には丸ノ内線02系・日比谷線03系と同時に新車デザインが発表された。
平成(1989年)、21世紀(2001年)、 東京メトロ移行(2004年)と時は移り変わるあいだに着々と数を増やしたが、制御方式・車体などバリエーションは多岐に渡り、近鉄だったら何系列に分かれちゃうのか? と考えてしまう。


05系(西船橋・1988)

東西線の正味の新車がついに登場。制御装置は「高周波分巻チョッパ制御」。緊急補強で走っていた8000系3編成は本来あるべき半蔵門線へ移っていった。


05系(西船橋・1988)

非冷房の5000系と並ぶ。8000系は冷房準備車で登場し、東西線在籍中に冷房を積んだ。05系が、東西線最初の新製冷房車である。


05系・5000系(西船橋・1988)

東京の地下鉄一の大動脈である東西線。5000系の淘汰にも時間がかかり、2007(平成19)年3月まで05系との競演が続いた。



05系・5000系(西船橋・1988)

丸味・パノラミックウィンドウの日比谷線3000系に対して国鉄乗り入れ前提の5000系は堅めの顔となったが、後継の03・05系でも03系だけがパノラミックウィンドウとなった。



05系(西船橋・1988)

05系は8000系以上にスッキリした屋根。方向幕は種別・行先セパレートとはならず、1コマに収める8000系スタイルを踏襲した。


05系(原木中山・1988)

センター分け2枚窓の顔に非常扉を配置したスタイル。当時中学生の私にはドクロの顔に見えて仕方なく、顔は03系の方がいいなぁと思った。


05系(三鷹・1988)

中央線三鷹へ乗り入れた05系。5000系、JR101・103・201・301系ら食パン軍団の中ではズバ抜けて垢抜けていた。黄色い205系は翌年の登場。



05系(津田沼・1988)(d)

平日夕方、津田沼へやって来たトップナンバー編成。113系や103系の姿が見える。すでにこの01Fも本線上から引退してしまった。


1989

昭和64年は7日間で終了し、1月8日から平成元年となった。


05系(東船橋・1989)(再掲)

東西線の津田沼乗り入れは当初から平日の朝夕ラッシュ限定。この姿を撮りに行けたのも中学生だった当時ならではだ。(若気の至りフラッシュ御免)


05系・JR301系(西船橋・1989)

黄帯・非冷房の301系と並ぶ。雰囲気が全然違うが、アルミ車という共通点も。


05系(西船橋・1989)

なんといってもSマークが懐かしい。



05系(原木中山・1989)

こうして見ると、02Fを撮る確率が高かったかな? 2枚は別の日の写真。


05系(行徳・1989)

残雪の行徳を後にする。まだ妙典駅はなく、次の原木中山まで当時は営団最長駅間だった。



05系(南行徳・1989)

2次車である04F。1次車3本に比べるとおでこが狭くなり、私の中でのドクロ感は和らいだ。3000系・5000系でも方向幕の高さが初期車とそれ以降で変わっていて、なぜかおでこ周りは変化が起きる。(つづく)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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