2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2011/04/13

営団東西線 なつかし写真・103系-2

103系東西線乗り入れ車の2回目。


ドラえもん

1989(平成元)年、301系と同じく103系1000・1200番台も誤乗防止のために黄帯から青帯に変更された。



JR103系1200番台(西船橋・1989)

冷改につづいて青帯化と、姿がコロコロ変わった1200番台。まだ全編成7連の時代で、運転台背後に「7」の表示も見える。中野方は快速表示器も併用で、西船橋方は表示器不使用。乗務員次第ってことか。



JR103系1200番台(西船橋・1989)

青帯化された第2編成が津田沼方の引き上げ線から7番線に入線。引き上げ線では黄帯の301系と並んでいて写真は撮ったが、ズームが届かずほんの小さくしか写っていなかった。
1200番台の側窓のユニット窓化はこの1972(昭和47)年製の第2編成から。



JR103系1200番台・5000系(西船橋・1989)

6番線に移ったら5000系が入線してきた。思いっきり運転士にフラッシュ焚いてしまっている。中3の若き日を猛省m(_ _)m。


JR103系1200番台(西船橋・1989)

こちらも快速表示器併用。この頃は学校から帰ってから夕方の西船橋駅までチャリで行って、入場券で駅撮り、というのを何度かしていた。同級生の影響。帰りは駅の改札外にあった「京葉そば」のかけそばを喰って帰るのが流れだった。


JR103系1200番台(茅場町・1989)

1000番台の青緑帯と似たようなものなので、変更直後の青帯顔に301系ほどの違和感はなかった。


JR103系1200番台(西船橋・1989)


JR103系1200番台(浦安・1989)

これはプチネタ。一時期この編成のクハの運行番号幕が白抜きに替えられていた。試用なんだと思うが、いまほどプチネタが鉄道雑誌で採り上げられなかったので、詳しいことは私は知らない。



JR103系1200番台(葛西・1990)

青帯化完了後も第1編成と第4編成は非冷房だった。ユニット窓かどうかでどちらかわかるのだが、写真が粗いのでなんともかんとも…。一見、一つ前の写真と同じ駅に見えるが、こちらは葛西での撮影。


JR103系1200番台(行徳・1994.4.1)

1991(平成3)年、東西線完全10連化は未だ7連が残っていたJR車の組み替えによって達成された。
103系1200番台は7連×5本が10連×2本、5連×1本に整理され、12両は初の転属で常磐快速線に回された。
数だけを観ると35両から12両減なら23両になるわけだが、ここには0番台サハ2両の転入というからくりがある。1200番台は7連でも中央にサハを入れた4M3Tではなく、片側先頭にクモハ102を用いた6M1Tである。
301系の10連化にあたっては3両のサハがモハの電装解除で生み出されたのに対し、103系1200番台には京浜東北線用の0番台サハを転入させた。
気になるのはA-A基準だが、103系自体が途中からA-A基準での製作に変わっており、その世代の車両を持ってきたのだ。窓の開口幅の制限など軽い改造が施された。

ということで、1200番台+0番台がこの編成の正しい呼び方なのかもしれない。サハは集中クーラーなので屋根は1両だけ異彩を放っているものの、ボディ周りは同じユニット窓なので溶け込んでいた。
写真は第4編成7連に第5編成の1ユニットとサハを加えた10連(調べると、ミツK6)で、白Hゴム・ライトグリーンの内装を保ったキレイな編成。いっぽう第5編成ベースの10連(同・ミツK7)は第1編成の非ユニット窓車2両が入り、更新で黒Hゴム化されるなど賑やかな編成になった。
5連口(同・ミツK9)は301系の記事のとおり予備的存在で、同様に貫通幌を正面に付けた姿に変わった。残念ながら私は撮影できていない。


ジプシー1000番台

103系1000番台は前記事のとおり常磐緩行線から営団千代田線へ乗り入れる車両として登場した。
営団側は暫定的に東西線形の5000系を千代田線開業用に用意したが、順次6000系を投入して5000系は東西線へ転属していった。

新機軸のチョッパ制御の6000系とちがって103系1000番台は抵抗制御で発熱著しい電車。千代田線は北千住—湯島間で上下線が別々の単線トンネルに分かれているが、電車の発熱がトンネルにこもりがちで、103系はしばしばオーバーヒートしてダイヤ乱れの原因を作っていた。
同じ抵抗制御の5000系は計画通り抜けていったが、103系をこのまま走らせるのもいかがか(内外装の面でも6000系や小田急9000形に劣った)ということになり、国鉄は新たに203系電車を開発して投入。103系1000番台は異動となった。
10連16本あった1000番台は104両が常磐快速線へ転用、56両は105系に改造されてのちのJR西日本エリアに飛び、この地下鉄乗り入れフェイスがまだ現役で活躍している。



JR103系1000番台(西船橋・1989)

営団の方針転換により車両冷房が可能となり、JR車も103系1200番台から冷改が始まった。このときに車両不足が生じることから、1989(平成元)年に常磐快速線にいた1000番台車を東西線乗り入れ用に1本転入させた。よもやの地下鉄直通仕業復活だった。
転属当初は黄帯を巻いていたが、ほどなく青帯に移行。私はナマで黄帯の姿には出会えていない。


JR103系1000番台・05系(西船橋・1989)

1000番台のクハはATC機器のスペースの関係で乗務員扉後ろの戸袋の窓がない。
やって来たのはクハが1009・1010、モハユニットが1032・1033・1034・1036という編成。番号順に編成を組んでいるとすると、この編成は1035のユニットが抜けて変わりに1032のユニットが入った形だ。快速線転用時は0番台サハを入れて6M4Tにしたものと8M2Tのままのものがあったので、前者から組み直した可能性がある。


JR103系1000番台(原木中山・1990)

転入した編成は冷改済みで、全車ステンレスキセの集中クーラー・AU75Eを積んでいる。また更新工事も行われており、黒Hゴム、ドア窓金属押さえの小綺麗な姿。屋根布がおでこに回っていることで正面だけでも1200番台との見分けがついた。快速表示器も一応付けられているが、使われたことはあるんだろうか?
この編成はのちミツK8となったようだ。当初は一時的な転属と考えられていたが、結局廃車まで東西線乗り入れ用で終始した。


東西線乗り入れ用103系1000・1200番台は晩年運行番号表示のLED化で少し表情が変わった。
晩年は見るからに朽ちていた。1000番台は帯の退色がはげしく、とくに日の当たる南側はカッスカスに薄くなっていた。1200番台は塗装のひび割れ・剥がれが各所に発生し、応急処置で帯がブツ切れになっているものもあった。

2003(平成15)年の春から夏にかけてE231系800番台に押し出されるように引退・廃車となった。なお、常磐快速線へ移った1200番台は1993(平成5)〜94(平6)年と10年も早く廃車されている。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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