2011/04/27

京成 鬼越・西船・海神 なつかし写真

前回の記事でなつかし写真をちょっと載せたのをきっかけに、同じくまだ載せていない京成での写真を排出しよう。

撮影した駅や区間ごとにまとめて記事を立てる。今回は鬼越・京成西船・海神でのもの。京成中山で撮ったものは少なく、すでにアップ済なのでナシ。


鬼越 Onigoe

鬼越(おにごえ)駅は京成の市川市内の代表駅・京成八幡の成田方の隣り駅。普通のみ停車。
古くからの住宅街の中にあり、地上駅舎・島式ホームのクラシカルな駅だ。現在、京成上野から本線を進んでくると最初に現れる構内踏切使用駅。

駅に面し踏切で京成本線を横切る道路はすぐ近くで国道14号線に合流する。その14号の渋滞が始まると踏切は大きなネックになる。高架の国府台駅の先から始まる市川市内区間は立体化の構想があるが、現時点ではその方式の案が数点出されて検討をしている段階。まだまだこの駅がこのスタイルで推移しそうだ。


初代3050形(鬼越・1992.2.11)

ファイアーオレンジの初代3050形。塗色変更のほか更新や冷改工事で新造時とはイメージが変わっている。
写真右に見切れている不動産店の前は円形の植え込みがあり、プチロータリー的になっている。



3200形+3200形ライトグリーン(鬼越・1992.2.11)(再掲)

再掲の3200形8M車の炎+緑編成。下り正面の写真は構内踏切手前の路盤レベルのところで撮っているので、後追いはホーム面がべったり入る。


3500形(鬼越・1992.2.11)

千葉線直通の4連。背後で車が渡っている踏切が前回の記事で3700形と3500形更新車を撮った場所。


3700形(鬼越・1992.2.11)

登場時の姿の3700形。英字なしの方向幕に対し、種別幕は英字入り。過去帳入りした「急行」の種別やスカートなしの姿もなつかしい。



3500形(鬼越—京成中山・1992.2.11)

鬼越駅付近の区間。市川市内の地上区間は線路両側に街路がある場所が多い。千葉線のみどり台あたりも似た雰囲気。
2枚は別の列車で、1枚目の3509は前記事で撮った更新車の更新前の姿。このときも散歩を兼ねてだったのでじっくりは撮らなかったが、なんだかこの撮影時は3500によく当たったみたい。


京成西船 Keisei-Nishifuna

鬼越から京成中山、東中山を経た次が京成西船(けいせいにしふな)駅。ここでのなつかし写真は過去にも記事を設けたが、それに載せてない分もまだあった。
「西船」は地元の住居表示で、国鉄の西船橋駅設置をきっかけにこの辺りが「にしふな」と呼ばれるようになった。そして見事住居表示にまで発展したのだ。

私が小学生までの間、この駅は葛飾(かつしか)駅だったが、東京都葛飾区と混同する利用者が出がちだったため現駅名に改称された。改称が行われたのは1987(昭和62)年4月1日。国鉄の分割民営化(JR化)に際し国鉄千葉駅前駅の改称が必須となり、同じタイミングで4駅の改称(「国鉄千葉駅前」→「京成千葉」、「京成千葉」→「千葉中央」、「センター競馬場前」→「船橋競馬場」、「葛飾」→「京成西船」)が実施された。どうせ変えるなら同じタイミングでやったほうが案内や手続き上効率がよかったのだろう。


AE100形(京成西船・1994.3.26)

スカイライナーで活躍していたAE100形。当時はどの会社も昼間はヘッドライトは使っていなかったため、明るい時間帯はライトのカバーが閉じたこの状態が常だった。


初代3050形(京成西船・1994.3.26)

細切れの上屋がこの駅のホームの特徴。
当時まだ千葉急行線の駅だった大森台行の列車。この3062Fはのち赤電色に復刻され(前出リンク記事参照)、その姿のまま廃車となった。



3200形(京成西船・1991)

3200形6M車同士のすれ違い。通勤特急で6連というのは不思議な感じ。薄暮でもヘッドライトはやっぱり点いていない。


3500形(京成西船・1994.3.26)

現行色に移行した3500形。「普通」板はまだ用意されておらず、3150形と3500形の普通列車は「赤地」だった。その赤地が擦れてみっともなくなっている。


3600形(京成西船・1994.3.26)

こちらは側面幕帯だけ青になった編成。3700形カラーになる前、3500・3600形の一部編成でこのスタイルが見られた。この写真はわかりづらいか…。この帯スタイルと英字入り方向幕の組み合わせはいかにも過渡期の形。西船における普通・西馬込行というのも今では考えられない。


3400形(京成西船・1994.10.16)

初代AE形の機器を活かし、京成系メーカーの大栄車輌で3700形に似た鋼製車体を新調して生まれた3400形。鋼製になったのは、大栄車輌にステンレス車の実績がなかったためと思われる。
写真はホーム到達直前のもの。奥の跨線橋をくぐった先が東中山駅で、駅間は0.6kmととても短い。


海神 Kaijin

海神(かいじん)駅は京成西船から丘へ上がったところにある。駅の両側に踏切があり、ホーム有効長は6連分しかない。京成中山も同じ状況で6連分になっているが、両駅が8連対応になると京成本線全駅が8連対応可能となる。


3200形(海神・1994.10.16)

距離をおいて並行するJR総武線と違い、この区間はアップダウンが激しい。京成西船—京成船橋間でのなつかし写真はこちらで。


3500形(海神・1993.6.27)

幕帯が青になった3500形。駅の上野方には片渡り線があった。


3500形(海神・1995.4)

今では実現されない3500形未更新車8連による特急。3500形は基本的にセミステンレスカーだが、上野方4両は最終ロットのオールステンレスカー・3596F。


3600形(海神・1995.4)

西船の西馬込行列車と同じ3618Fの6連が現行色になったあとの姿。
京成西船・海神とも駅舎は片側のホームに隣接して設けられているが、西船は上り、海神は下り線にあり、跨線橋の向きも含めて両駅舎は点対称の配置。


3200形(海神・1993.6.27)

駅成田方には保線基地がある。この写真は駅隣接の踏切から撮ったものだと思う。
写真の3212Fは試験塗色で白ベースをまとった編成。一番ダサい「漢字の上に英字」幕を使用していた頃。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2011/04/26

11.4.24 ジモトレイン

この日は散歩。自宅から市川市内をあちこち歩いた。
その道すがらと帰りに少々列車を撮ったので、記事を立てた。


真間川の踏切

家から江戸川沿いを歩いたりしたのち、中山のニッケコルトンプラザのヴィレッジバンガードに行こうと思ってたことを思い出した。真間川沿いに真っ直ぐ行くのが最短ルートだったが、かなりの遠回りで到着。
用事を済ませ帰ってもよかったところ、せっかくなので京成と真間川が交差しているところへ行ってみた。

京成本線がコンクリート橋で真間川を渡るこの場所、もともとは川の両岸を通る道がそれぞれ踏切になっていたが、現在道路工事のために右岸の道が不通になっている。
左岸の踏切で列車を待っていると、下り表示で踏切が鳴き始めた。


3700形(京成八幡—鬼越)

アウトカーブをやって来る楽しいアングルだが、すでに15時を過ぎていて正面は逆光。3700形6連口の普通列車。
京成は節電ダイヤ実施中で、京成高砂—京成津田沼間の普通列車が削減されていて、普通のみ停車の駅だと20分前後も間隔が開く場合も。すぐ近くの鬼越の場合だと、23分開きというのがある。


3500形更新車(京成八幡—鬼越)

写真手前がコンクリート橋で、撮っているのはその手前の踏切。


3100形(京成八幡—鬼越・1992.2.11)

同じ踏切から撮った19年前の写真。立っている場所は踏切の反対側。


3500形(京成八幡—鬼越・1992.2.11)

亀田製菓風特急板がステキな3500形。列車が踏んでいるのが右岸の踏切で、四輪車は通れない狭いものだ。
…ここで撮ったもので載せられる写りのものはこの2枚くらい。これまでのなつかし写真の記事には出していなかった。

そのまま真間川沿いを進み、同じく工事のために不通区間があることから川から離れ、総武線と北総線の間の住宅地域を歩く。
この地域は下総台地の南端で、大昔の入り組んだ海岸線。いわばリアス式だ。住宅街を進むと突如として坂道が現れたりする。また田畑や森など、都心に近いことが感じられない風景も多く、散歩には楽しいところだ。

国分地域にいる頃16時を過ぎ、大分疲れてきた。帰る術を考えたとき、総武線の駅へ出るバスは渋滞でイライラしそうなので敬遠。北総線北国分駅を目指した。


帰途

角に遅咲きの桜が咲いた公園の前を抜けると北国分駅のロータリーに出た。開業は1991(平成3)年だが、まぁとっても静かで、まだ開業間もないような雰囲気すら漂っていた。

歩いたのは4時間。長い休憩はなく、ちょっとした風景の写真を撮ったり、信号待ちやモバイルGoogleマップをじっくり見るのに立ち止まったくらいだ。
その間トイレにも寄っておらず、入場後早速ト…あ、トイレは改札外って書いてある。窓口の奥に引っ込んでいた駅員さんに声をかけて一旦トイレへ。再入場のときは窓口でお迎えしていただきました。


7500形(北国分)

運良く数分待ちでやって来た下り列車は7500形。京成3000形ベースの車両だが、表示器のフルカラーLED化は行われていない。
東松戸まで2駅乗車。


京成3050形(東松戸)

東松戸で武蔵野線に乗り換えるが、上りアクセス特急がすぐ来るようだったので撮影。上野行だった。


205系(東松戸)

アクセス特急を撮ってからJR側に移動したところ、ちょうど209系500番台の列車が出たところだった。次の列車を待つ間に上り列車を撮影。
ガラス張りのホーム壁からは高架を通過するスカイライナーが見えた。なんだか新幹線接続駅にいるような感覚だった。

東京行に乗車し、市川塩浜で降りるつもりが寝過ごして新浦安に。「成勝」が通る時間帯だったが、直前に出たところだった。


E233系(新浦安)

私の乗る下り各停は快速待ちでしばらく停車とのこと。妙にピカピカしてると思ったら、やっぱり最新のケヨ517。4月11日に配給されてきた編成。新車臭がしていた。ホーム端まで余裕のある東京方に回って撮影。


E233系(新浦安)

上り快速はケヨ507。

ケヨ517の各停で二俣新町まで出て帰宅した。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2011/04/13

営団東西線 なつかし写真・103系-2

103系東西線乗り入れ車の2回目。


ドラえもん

1989(平成元)年、301系と同じく103系1000・1200番台も誤乗防止のために黄帯から青帯に変更された。



JR103系1200番台(西船橋・1989)

冷改につづいて青帯化と、姿がコロコロ変わった1200番台。まだ全編成7連の時代で、運転台背後に「7」の表示も見える。中野方は快速表示器も併用で、西船橋方は表示器不使用。乗務員次第ってことか。



JR103系1200番台(西船橋・1989)

青帯化された第2編成が津田沼方の引き上げ線から7番線に入線。引き上げ線では黄帯の301系と並んでいて写真は撮ったが、ズームが届かずほんの小さくしか写っていなかった。
1200番台の側窓のユニット窓化はこの1972(昭和47)年製の第2編成から。



JR103系1200番台・5000系(西船橋・1989)

6番線に移ったら5000系が入線してきた。思いっきり運転士にフラッシュ焚いてしまっている。中3の若き日を猛省m(_ _)m。


JR103系1200番台(西船橋・1989)

こちらも快速表示器併用。この頃は学校から帰ってから夕方の西船橋駅までチャリで行って、入場券で駅撮り、というのを何度かしていた。同級生の影響。帰りは駅の改札外にあった「京葉そば」のかけそばを喰って帰るのが流れだった。


JR103系1200番台(茅場町・1989)

1000番台の青緑帯と似たようなものなので、変更直後の青帯顔に301系ほどの違和感はなかった。


JR103系1200番台(西船橋・1989)


JR103系1200番台(浦安・1989)

これはプチネタ。一時期この編成のクハの運行番号幕が白抜きに替えられていた。試用なんだと思うが、いまほどプチネタが鉄道雑誌で採り上げられなかったので、詳しいことは私は知らない。



JR103系1200番台(葛西・1990)

青帯化完了後も第1編成と第4編成は非冷房だった。ユニット窓かどうかでどちらかわかるのだが、写真が粗いのでなんともかんとも…。一見、一つ前の写真と同じ駅に見えるが、こちらは葛西での撮影。


JR103系1200番台(行徳・1994.4.1)

1991(平成3)年、東西線完全10連化は未だ7連が残っていたJR車の組み替えによって達成された。
103系1200番台は7連×5本が10連×2本、5連×1本に整理され、12両は初の転属で常磐快速線に回された。
数だけを観ると35両から12両減なら23両になるわけだが、ここには0番台サハ2両の転入というからくりがある。1200番台は7連でも中央にサハを入れた4M3Tではなく、片側先頭にクモハ102を用いた6M1Tである。
301系の10連化にあたっては3両のサハがモハの電装解除で生み出されたのに対し、103系1200番台には京浜東北線用の0番台サハを転入させた。
気になるのはA-A基準だが、103系自体が途中からA-A基準での製作に変わっており、その世代の車両を持ってきたのだ。窓の開口幅の制限など軽い改造が施された。

ということで、1200番台+0番台がこの編成の正しい呼び方なのかもしれない。サハは集中クーラーなので屋根は1両だけ異彩を放っているものの、ボディ周りは同じユニット窓なので溶け込んでいた。
写真は第4編成7連に第5編成の1ユニットとサハを加えた10連(調べると、ミツK6)で、白Hゴム・ライトグリーンの内装を保ったキレイな編成。いっぽう第5編成ベースの10連(同・ミツK7)は第1編成の非ユニット窓車2両が入り、更新で黒Hゴム化されるなど賑やかな編成になった。
5連口(同・ミツK9)は301系の記事のとおり予備的存在で、同様に貫通幌を正面に付けた姿に変わった。残念ながら私は撮影できていない。


ジプシー1000番台

103系1000番台は前記事のとおり常磐緩行線から営団千代田線へ乗り入れる車両として登場した。
営団側は暫定的に東西線形の5000系を千代田線開業用に用意したが、順次6000系を投入して5000系は東西線へ転属していった。

新機軸のチョッパ制御の6000系とちがって103系1000番台は抵抗制御で発熱著しい電車。千代田線は北千住—湯島間で上下線が別々の単線トンネルに分かれているが、電車の発熱がトンネルにこもりがちで、103系はしばしばオーバーヒートしてダイヤ乱れの原因を作っていた。
同じ抵抗制御の5000系は計画通り抜けていったが、103系をこのまま走らせるのもいかがか(内外装の面でも6000系や小田急9000形に劣った)ということになり、国鉄は新たに203系電車を開発して投入。103系1000番台は異動となった。
10連16本あった1000番台は104両が常磐快速線へ転用、56両は105系に改造されてのちのJR西日本エリアに飛び、この地下鉄乗り入れフェイスがまだ現役で活躍している。



JR103系1000番台(西船橋・1989)

営団の方針転換により車両冷房が可能となり、JR車も103系1200番台から冷改が始まった。このときに車両不足が生じることから、1989(平成元)年に常磐快速線にいた1000番台車を東西線乗り入れ用に1本転入させた。よもやの地下鉄直通仕業復活だった。
転属当初は黄帯を巻いていたが、ほどなく青帯に移行。私はナマで黄帯の姿には出会えていない。


JR103系1000番台・05系(西船橋・1989)

1000番台のクハはATC機器のスペースの関係で乗務員扉後ろの戸袋の窓がない。
やって来たのはクハが1009・1010、モハユニットが1032・1033・1034・1036という編成。番号順に編成を組んでいるとすると、この編成は1035のユニットが抜けて変わりに1032のユニットが入った形だ。快速線転用時は0番台サハを入れて6M4Tにしたものと8M2Tのままのものがあったので、前者から組み直した可能性がある。


JR103系1000番台(原木中山・1990)

転入した編成は冷改済みで、全車ステンレスキセの集中クーラー・AU75Eを積んでいる。また更新工事も行われており、黒Hゴム、ドア窓金属押さえの小綺麗な姿。屋根布がおでこに回っていることで正面だけでも1200番台との見分けがついた。快速表示器も一応付けられているが、使われたことはあるんだろうか?
この編成はのちミツK8となったようだ。当初は一時的な転属と考えられていたが、結局廃車まで東西線乗り入れ用で終始した。


東西線乗り入れ用103系1000・1200番台は晩年運行番号表示のLED化で少し表情が変わった。
晩年は見るからに朽ちていた。1000番台は帯の退色がはげしく、とくに日の当たる南側はカッスカスに薄くなっていた。1200番台は塗装のひび割れ・剥がれが各所に発生し、応急処置で帯がブツ切れになっているものもあった。

2003(平成15)年の春から夏にかけてE231系800番台に押し出されるように引退・廃車となった。なお、常磐快速線へ移った1200番台は1993(平成5)〜94(平6)年と10年も早く廃車されている。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

営団東西線 なつかし写真・103系-1

東西線なつかし写真、301系につづいては103系1200番台と1000番台。


退化した新入り

東西線乗り入れ用という限定要素(=両数が少ない)は、アルミ車体・空気バネ台車の新機軸・301系の導入にはぴったりだった。しかし運用増による増備が進むと、国鉄が301系のコスト高を我慢できない状況になった。

1970(昭和45)年、常磐線から営団千代田線に乗り入れるための車両が新製された。301系ではなく、既存の103系を地下鉄向けに整備した103系1000番台で、鋼製車体・コイルバネ台車で車体と台車は退化してしまった。
東西線用も1編成の増備が必要となり、この1000番台の東西線用タイプである103系1200番台が登場した。なお、1000・1200番台はモハ102・103の910番台で試用されたものをベースにした超多段制御器CS40を用いている。


JR103系1200番台・5000系アルミ車(西船橋・1988)

常磐線用1000番台がエメラルドグリーン帯で登場したのに対し、1200番台は当然301系と同じカナリア帯で登場した。1000番台は両端クハ+モハ4ユニットの8M2Tの10連だが、1200番台は三鷹方が新形式クモハ102となる6M1Tの7連。


JR103系1200番台(日本橋・1988)(d)

車両によっては一般タイプの103系より少しキーの高いモーター音がするものがあり、地下線内では大きく響きわたる。
この先頭車の方向幕は「地下鉄経由」が併記されていないタイプ。



JR103系1200番台(西船橋・1988.10.2)

301系同様「荻窪」のコマが入っていた。やはり手動。
1200番台は7連5本が造られ、2本目からは同世代の地上形と同様に側窓はユニット式となった。


JR103系1200番台(原木中山・1988)(d)

原木中山1番線中野方での写真。1969(昭和44)年の西船橋延伸時開業の駅のホームは、改札口への階段を中心にしたエリア以外は上屋なしで建設された。壁・窓の意匠や柱の形(既設部:裾絞り、追設部:垂直)で簡単に見分けがつく。
原木中山はこの1番線中野方だけホーム上屋が追設されず、ホーム監視モニターにだけ簡単な屋根が付いていた。


JR103系1200番台(原木中山・1988.12.4)

1000番台ではATC機器配置の都合で乗務員扉後部の戸袋が埋まっていたが、1200番台では再び窓付きに戻っている。1200番台も東西線用のATCを積んでいる。


JR103系1200番台(原木中山・1989)(f)

方向幕の窓が汚れて非常に見づらくなっている。
フィルムスキャナで取り込んだこの画像だが、フィルムの汚れがひどかった。


JR103系1200番台(西船橋・1989)

東西線は両端とも中央・総武緩行線に直通する形態のため、経由が違えど「三鷹・中野・西船橋・津田沼」という行先は緩行線の列車と被っていた。「地下鉄経由」はその説明のために入っていたものだが、301系の記事のとおり、車体色で系統の判別はできたのだ。


近代化

ユニット側窓の4編成と同い年の地上形103系は冷房車として新製されていたものの、営団が車両ではなくトンネル冷房を導入していたため1200番台はすべて非冷房で新製された。
しかし営団の方針転換から1988(昭和63)年ごろから車両の冷房搭載が始まり、1200番台も冷改が始まった。



JR103系1200番台(西船橋・1988)(d)


JR103系1200番台(西船橋・1988)

非冷房・正面布製方向幕・側面方向幕なし、というスタイルだった1200番台。冷改によって屋根上にはAU712が載り、側面方向幕も新設された。併せて正面方向幕も側面と一緒の電動式となり、種別併記のフィルム幕に進化。緩行線の黄色の103系と同等になった。
方向幕の「地下鉄経由」の文字は廃止。また正面助士側の快速表示器は写真のように冷改当初は併用されていたようだ。


JR103系1200番台(西船橋・1988)

冷房の補助電源には301系と違いMGを使用したため、屋根にSIV装置は載っていない。またこの第5編成はランボードもなく、301系よりスッキリしている。
幕帯は2カ所のJNRマークを消して帯が途切れたままになっている。なお正面には運行番号窓上に塗装でJNRマークがあったが、JR化後にJRマークが付くことはなかった。


JR103系1200番台(日本橋・1989)

日本橋に着いた7連。ホーム中野方の10連しか停まらない位置で待っていた客が最後尾に押し寄せる。
当時のホームの次列車の予告表示器は行先のみの表示で、両数は放送か掲示の時刻表で確認するしかなかった。百貨店買い物帰りの女性客が多い日本橋では、特にこの集団移動が顕著だった気がする。


JR103系1200番台(原木中山・1989)

先の写真の列車で地元に帰って降りたときに撮ったもの。103系1000・1200番台は301系とは違って幕帯が正面にも少しだけ回り込んでいるのが特徴だが、このクモハは運転士側の帯が方向幕まで延びている。


JR103系1200番台(原木中山・1989.8)

地上形も含めた103系の簡易冷改グループは、片方の先頭車の側面方向幕設置を省略して、隣の車両と方向幕が並ぶムダを避けることが多かった。1200番台の場合は中野方先頭車のクモハ102がそれにあたる。(つづく)

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