2024年4月に入り、2016年夏までの古い記事の画像リンクが切れました。
対応は現アルバム経由での再貼付しかなく、徐々に進めています。
前後の記事が直ってないのに、ポツンと直っている記事もあります。
完全復旧までには相当の期間がかかる見込みです。

2010/10/26

大宮・新前橋 留置車両なつかし写真

宇都宮・高崎線のなつかし写真を載せてきたが、今回はその沿線である大宮や新前橋の構内で見かけたそれぞれ性格の違う留置車両の写真を扱う。


大宮

大宮駅には大宮工場が隣接していて、そこにやってきた各線の車両を大宮の中電ホームから眺めることができる。



クモヤ145・113系・115系(大宮・1990)

クモヤがつながっているのは大船の113系、手前は新前橋の115系。通常の営業運転では顔を合わさない2色・2形式の組み合わせ。


クモヤ145(大宮・1990)



クモヤ145・103系・115系・クモユニ143(大宮・1990)

クモヤ2両にクモユニという事業用車カオス状態。2両のクモヤは向きが逆のため、上がっているパンタの位置も逆だ。
高架下には国鉄特急色の車両も見え、国鉄形の塗装車ばかりで楽しい風景。もっとも、今ほど珍しいことではなかったか…。


オハネ14(大宮・1990)



キハ37+キハ30(大宮・1991)(再掲)

客車や気動車も現れる、なんでもありな場所だ。



103系(大宮・1989)

整備が済んだオレンジの103系はピカピカ。武蔵野線か青梅・五日市線の車両だが、おふざけか「新宿」を表示。ウグイスの103系はモハ103-67・モハ102-67のユニット。モハ103はパンタが外されている。
後ろにはこっそりニューシャトル。当時は白と赤の塗色だった。


103系(大宮・1991.6.6)

スカイブルーの103系に連結されたモハ103-67。先の写真から2年が経ちみすぼらしい状態になっている。


103系(大宮・1991.6.6)

となりに3色目・オレンジの103系登場。
この死んだウグイスは配給時に機関車と電車の間に連結器代わりに入る車両で、ユニット時代の外側にあたる連結器が機関車とつながるものに取り替えられている。この車両が退いたあとは115系がその任に就いたとか。


103系(大宮・1991.6.6)

実はスカイブルーのうしろにはさらに4色目・エメラルドグリーンが。
写真は私の高校時代で、常磐緩行を通学で使っていた頃だ。当然103系の快速もしょっちゅう目にしていたのだが、その中でこの「AU712の簡易冷房で側面方向幕なしのサハ」は800番台の印象が強かった。番号のところだけ高解像度でスキャンしてみたところ、やはりサハ103-801であるようだ。
サハ103-800番台はモハからの改造組の番号で、801〜804は超多段制御の試作車として登場した910番台車が種車。


103系(大宮・1991.6.6)

遠目に見るとこんな風景。カナリアがいないのが惜しいが、すばらしいものだ。エメラルドグリーンのサハは同スタイルのものがもう1両繋がっていて、801と同じ常磐線の編成で使われたサハ103-804じゃないかと推測。

写真左端にはエンジ色のDLが見切れているが、正体はこれ。


DD16 36+211系(大宮・1992)

DD16 36はこちらの記事で紹介した大宮工場の入換用機関車で、車籍はすでになくなっている機械扱いの車両。色はコロコロと塗り替えられていたようだ。


新前橋

上越線新前橋駅構内には「何でこんな車両が?」という、当時の車籍を有する車両が載っていた名鑑に載ってないものが並んでいた。
素性がよくわからない車両もあり、この記事を書くにあたって調べた結果、それぞれの車両について把握することができた。


オハフ61 2528(新前橋・1990)

オハフ61は木造客車を鋼体化したグループの緩急車。普通列車向けでクロスシートの背ずりは板張りになっているなど、格の低い内装だった。



スエ30 9・107系(新前橋・1990)

見ての通りの救援車・スエ30 9。ダブルルーフの31系客車のスニ30が種車。31系は国鉄(登場時はまだ鉄道省)初の鋼製客車なので、先のオハフ61はそれ以前の車両が元になっているわけだ。
子どもの頃、コロタン文庫の図鑑で「救援車」の写真をいろいろ見たとき、「この車そのものが古くて助けが必要そうだ」と感じていた。この車両もまさにそんな感じ。
このスエ30 9は現在碓氷峠鉄道文化むらにスニ30 9に戻って展示されている。どうやらこの新前橋での留置はそのための保存だったようだ。
なお、佐久間レールパークにいたスニ30 95はスエ30 8だった。JR東海博物館でも展示予定。


オヤ41 2(新前橋・1990)

車両全体を撮ることができず、これだけしか見えないのだが、調べた結果オヤ41 2であることがわかった。
妻面がキノコ形で側窓が2枚ずつ対(つい)になっているこの姿、どこかで見たことがあると思ったら、佐久間レールパークにいたマイネ40 7にそっくりではないか。そのマイネ40 7は最後はオヤ41 1であり、写真の車両ではない。
レールパークの記事の通り、オヤ41は「工事車」で、鉄道工事の作業員の移動・宿泊場所として寝台設備を活かして使われた。元々特殊な形の冷房車だったが、オヤ化の際に取り外されている。
オヤ41 2は元マイネ40 11で、これまた碓氷峠鉄道文化むらにマイネの状態で展示されている。


オヤ10 1(新前橋・1990)

オヤ10 1は元オロネ10 10。10系客車の二等寝台車だが、車体構造は次世代の20系ナロネ21に準じていて、固定窓や深いカーブの屋上機器のない屋根は10系客車の中にあって異質だった。
工事車オヤ10となってからは前出のオヤ41と組んで運用され、オヤ41にはこのオヤ10からダクトで冷気を送り込んでいた。オヤ41の貫通路上の長方形のものがダクトの口だ。
オヤ化後にHゴム支持の固定窓が12系のようなユニットサッシに改造され、20系風のスタイルは崩れてしまった。それが響いたか、碓氷には行けなかったようだ。
なお佐久間レールパークにいたオロネ10 27はオヤ10 2からの復元で、これもJR東海博物館に入る予定。やはりオヤ化後ユニットサッシになっていたが、レールパークでの展示期間中に固定窓へ復元されている。


オヤ17 1(新前橋・1990)

オヤ17 1は元オシ17 2055。10系客車の食堂車だが、台枠は戦前製の客車のものを流用して造られた。
調理用石炭レンジを用いたこの車両が1972(昭和47)年の北陸トンネル火災(30名死亡)の際の出火元となったため、それ以降は営業運転には用いられなかった。
オヤ17は「教習車」で、車内には運転台シミュレーターなども搭載されていた。写真のとおり、妻面に運転台用の3枚窓が開けられている。
この17 1も現在碓氷峠鉄道文化むらでオシ17 2055に戻って展示されている。


マヤ43 1・ナハフ11 1・オハネ12 29・12系(高崎・1990)

この1枚のみ高崎駅でのもの。青に黄帯(色あせてるけど)のマヤ43はマロネ41 23を改造した教習車で、大元はマイネ41 10。
続くぶどう色が10系の座席車、その奥の青が10系の寝台車。この10系の2両は碓氷峠鉄道文化むらで展示されているナハフ11 1とオハネ12 29なんじゃないかと思う。
後者はとなりにいる12系客車と同じ数字だが、まったく別時代の車両だ。そういった意味では12系と兄弟形式である14系にはハもハネもあるのがややこしい。
なお、オハネの奥につながってるのは無蓋車改造のトロッコ車両。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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