2010/09/27

91.9.14-16 小浜旅行の足

今回もまた旅先なつかし写真。1991(平成3)年に家族で小浜に泊まる旅行へ出かけたときのもの。
足は鉄道利用となり、私がルート・列車を選ぶことになった。乗ったり見かけたりした列車たちの写真を紹介。


早起きは三文の得?

9月14日の夜、東西線で大手町まで出て東京駅へ移動し、乗り込んだのは寝台急行「銀河」。廃止直前にようやく注目の的となったものの、常に地味な活躍を続けていた列車だ。


24系寝台急行「銀河」(東京・1991.9.14)

東京23時発の銀河。奇跡的に残っていたメモによると乗ったのは「オハネフ25 31(昭和51年新潟鉄工製)」とあるが、この最後尾車両だったかは定かではない。この銀河乗車が16歳にして私のブルトレ初体験だった。


24系寝台急行「銀河」・485系回送(米原・1991.9.15)

米原に着いたのは5時45分。この到着時刻と慣れない寝台のために、あまり眠れなかった記憶が残っている。
マークのない485系が並んでびっくりした。回送列車だ。



24系寝台急行「銀河」・485系回送(米原・1991.9.15)

そして奥をEF81牽引の貨物列車が通過。ボンネット485系もEF81の貨物列車も通学の常磐線で見慣れてはいたが、やはり違う土地だとウキウキするもんだ。


20系「ホリデーパル」(米原・1991.9.15)

さらには唯一の20系客車ベースのジョイトレ「ホリデーパル」が登場。実はこの年の7月に豊橋で遭遇したばかりだったが、結局この2度遇ったきりとなった。

このほか、こないだ載せた14系+12系の寝台急行「ちくま」にも遭遇したり、221系113系近江鉄道の車両などを撮ったりと、1時間の間にいろいろ楽しめた。



北陸線457系(米原・1991.9.15)

米原から敦賀までは北陸線の鈍行で移動。6時49分発の249Mで、乗ったのは黄色いHMのほうのクモハ457-18だった。北陸線用の特徴は方向幕が埋められていること。トンネルでのツララにより方向幕ガラスの破損がよく起きたためだそうだが、写真の車両のようにただフタをしただけのような粗っぽいものも目立った。
現在も金沢のA18編成として健在で、差し替えがなければ青いHMのクハは455-65のはずだ。現存の車両は旧方向幕部分も継ぎ目なく平滑な状態に整備されたものが多い。
奥を走るブルトレは東京行の列車だと思う。現在の米原駅は橋上駅舎化や線路の整理が行われたので、だいぶ風景が変わっている。
なお銀河に乗り込んだ1991年9月14日に米原—長浜間が直流化されており、221系が北陸本線にも顔を出すようになった翌日の風景となる。


日本海側の非電化路線

敦賀ではたった3分のキラー接続で小浜線にのりかえ。当時はまだ非電化路線だった。



小浜線キハ58系(小浜・1991.9.15)

小浜には8時47分着。乗ったのはパノラミックウィンドウのキハ28 2510。北陸線とともにボックスシートだったが、銀河で中途半端だった分これらの鈍行で寝たんじゃないかと思う。まさに本末転倒。
小浜線はブルーに白帯の専用カラーで統一されていた。



小浜線キハ58系(小浜・1991.9.16)

翌日。
北近畿タンゴ鉄道宮津線の天橋立(あまのはしだて)へ向かうためふたたび小浜から小浜線に乗る。写真は待つ間に撮った敦賀方面行列車。


小浜線キハ58系(小浜・1991.9.16)

こちらが西舞鶴まで乗る926D…つまり、前日敦賀から小浜まで乗ってきたのと同じ列車。乗車車両はキハ28 2360。
小浜から乗ると小浜線は東舞鶴までで、北近畿タンゴ鉄道宮津線(旧JR宮津線)を分けるとなりの西舞鶴は舞鶴線の駅となる。地図上は東舞鶴は分岐路線などなく一本の路線の上の駅のようだが、現在まで小浜線と舞鶴線は東舞鶴を境に運行系統がしっかり分かれていて、その中でも926Dは舞鶴線西舞鶴まで1駅入る珍しい存在だったと記憶している。


舞鶴線キハ40系(西舞鶴・1991.9.16)

西舞鶴では舞鶴線カラーのキハ40系に遭遇。こうしてカラーリングも別になっていた。


KTR1000形+KTR2000形(西舞鶴・1991.9.16)

キハ58系改造のジョイトレの中でもマイナーな存在だったのがこの車両。北近畿タンゴ鉄道所属車両で「レインボーリゾート」の愛称がついていた。写真の編成は原形を保つ1001+2001で、もう1本の1002+2002はエーデルシリーズと同じ顔の両端が階段状になった展望車だった。4連での運転やJR直通運転もあったようだが、タンゴでの所属は7年程度と短命だった。


宮津線KTR700形(西舞鶴・1991.9.16)

天橋立まで乗車したのはこのKTR700形。シックな宮福線の車両とちがい、派手な塗装なのが特徴。この豊岡行219Dは混んでいて座れなかった記憶。この列車の車号はメモしていなかった。


天橋立

天橋立を歩いてケーブルカーに乗り、山へ登って天橋立を股覗き。…と思っていたが、手持ちの写真を見ると少なくとも上りは並行するリフトで移動したようだ。たしかケーブルにも乗ったと思うのだが。




天橋立ケーブル(府中—笠松・1991.9.16)

海を一筋の松原が横切る奇妙な風景。これが日本三景のひとつ・天橋立だ。福岡に飛行機で行ったときに機中から見た海の中道(JR香椎線が走っている)も「天橋立に似ているな」と思った記憶があるが、こうして見ると天橋立は細いまま続いていてより奇妙だ。


宮福線MF100形(天橋立・1991.9.16)

天橋立からの帰りは特急「タンゴエクスプローラー」4号。ただし乗るのは私のみで、両親は先に出る急行「丹後」8号に乗る。たしか両親が京都でちょっと寄りたい店がある的な話と、私はエクスプローラーに乗りたいという話からそうなったんだと思う。京都からは同じ新幹線で帰るのだ。

緑色の気動車は宮福線用のMF100形。この駅は乗車前まで改札が開かず、私の乗る列車はまだ先だが、駅員(たぶん写真の方)に「写真を撮りたい」とこれから使うきっぷを見せて一旦入れてもらった。
宮福線はJR山陰線・福知山線の福知山駅からJR宮津線の宮津駅まで新規に建設されて1988(昭和63)年に開業した路線。当時は宮福鉄道という名前だったが、のち宮津線もJRから引き継ぎ北近畿タンゴ鉄道に改称した。ちなみに改称は宮福鉄道開業翌年、宮津線引き継ぎはさらにその翌年だ。
宮福線開業時の車両はMF100形・MF200形(エンジ色)と「宮福」の略称が形式名となり現在もそのまま使われているが、その後の車両はすべて北近畿タンゴ鉄道の略字である「KTR」が付いている。



JRキハ58系快速「みやづ」(天橋立・1991.9.16)

天橋立駅に留置されていたのがこのキハ58系。急行幕と「みやづ」の札を差している。
この列車は臨時急行列車で、大阪—天橋立間を福知山線・宮福線経由で走るもの。幕とは裏腹に、北近畿タンゴ鉄道区間となる福知山—天橋立間は快速。私の乗る特急タンゴエクスプローラー4号より後の出発。
みやづは福知山—宮津—天橋立間の電化後は定期特急「文殊」に生まれ変わっている。


JRキハ58系急行「丹後」(天橋立—岩滝口・1991.9.16)

天橋立駅から少し歩いたところの道路沿いから撮った急行丹後8号。宮津線・舞鶴線・山陰線を走って京都へ向かう。
全国で急行列車が減少の一途を辿る中、この地域はボックスシートのキハ58系を用いた純然たる急行列車が充実。福知山や西舞鶴で分割併合を行う多層建て列車も多かった。
両親は私より1時間半先にこの列車で京都へ向かった。




JRキハ65系特急「エーデル丹後」(天橋立—岩滝口・1991.9.16)

ぷっくりした顔が特徴の「エーデル」を使用した特急「エーデル丹後」。福知山で電車特急の「北近畿」と併結して新大阪へ向かう。エーデルシリーズは「エーデル鳥取」「エーデル北近畿」と3編成登場。2連のエーデル丹後の中間車にも使える貫通型のままの「シュプール&リゾート」4連も登場した。
現在は特急「タンゴディスカバリー」がエーデル丹後に変わって活躍中で、トレーラー扱いで北近畿につながっていたエーデル丹後とは違い、183系電車との協調運転を行っている。

このあと駅に戻ってタンゴエクスプローラー4号に乗ったのだが、天橋立ではタイミングがなかったのか写真を撮れていない。


京都駅嵯峨野線ホーム



北近畿タンゴ鉄道KTR001形特急「タンゴエクスプローラー」(京都・1991.9.16)

タンゴエクスプローラーは元国鉄路線の第三セクター鉄道では異例の立派な特急車として1990(平成2)年に登場。JR直通の同名の特急列車として現在も活躍を続けている。
両先頭は展望席で、その他の車両はハイデッカーという当時の流行に沿ったもの。眺望重視のため側窓は屋根肩までかかるもので、その分荷棚がないというリスクもある。
私の乗った4号京都行は天橋立16時36分発で、JR区間に入ったころはほぼ夜の風景。荷棚なしの大窓の恩恵はあまりなかった。新大阪発福知山線・宮福線経由の現在と違って当時は京都—久美浜間の運転で、山陰線・宮福線経由となっていた。



キハ181系特急「あさしお」(京都・1991.9.16)

京都でタンゴエクスプローラーの隣のホームにいたのがこの特急「あさしお」。表定速度が最遅の特急として有名だった。
私には“あさしお”の響きは大相撲大関の朝潮太郎(現・高砂親方)のイメージが強く、「いかにも足の遅そうな名前だ」と小さい頃は思っていた。

現在北近畿タンゴ鉄道は宮福線全線と宮津線宮津—天橋立間、舞鶴線と小浜線は全線が電化され、京都から山陰線を進む気動車特急は姿を消し、当然急行も電車特急に統合されてなくなってしまった。
ただし宮福線の普通列車に関しては現在も気動車の運行が続き、電化設備が勿体ない状況。新幹線化前の田沢湖線や現在の肥薩おれんじ鉄道と同じだ。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

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