2009/09/30

91.7.21 佐久間レールパーク

佐久間レールパークはJR東海が設けた車両展示施設。
場所は飯田線中部天竜駅構内の中部天竜機関区跡地で、1991(平成3)年4月21日にオープンした。

この佐久間レールパークが、来る11月1日をもって閉園となる。
これは、名古屋港にJR東海博物館(仮称・2011年春開館予定)を新設することになったためで、大半の車両がそちらへ移転するとのこと。つまりは佐久間が最後になる車両もあるということだ。

私は開園3カ月後となる1991年7月21日に一度だけ訪れた。当時の写真があるので今回はそれを公開。
展示車両の構成は現在と異なっていて、新幹線や気動車や貨車はなし。



入口の看板。車輪は新幹線のもののようだ。


◆クヤ165-1




サハシ153改造の教習車で、名古屋鉄道管理局の165系の運転実習用だそう。撮影当時はパーク唯一の「新性能電車」だった。
よく見ると非パンタ側妻面は中央窓下にフタがついていて、それを避けるようにタイフォンとヘッドライトが外側に寄っている。テールライトとの位置関係を比べるとよくわかる。
現在は妻窓が黒Hゴムになっている。傷みが進んだのかもしれない。今は白Hゴムは作っていないとも聞くので、黒になったのは致し方ないところなんだろう。


◆クモエ21800


モハ31(→クモハ11)改造の救援車。妻面には片寄せの扉がつき、側面は中央に大きな引き戸が設けられている。
当初はクモエ21 008だったが、中央西線用に低屋根改造され800号に変わった。
この車両は展示を終了しすでに解体されている。


◆クモハ12054



モハ31(→モハ11)改造の車両。片運転台の種車に運転台を増設して両運転台化した。増設側の妻面は作り替えをしていないので、貫通扉が残った半室運転台となっている。054号は鶴見線用に改造されたもの。


◆クモハ52004



関西急電用として1937(昭和12)年に作られた車両。流線型の先頭部と当時としては珍しいノーシル・ノーヘッダー&張り上げ屋根の美しい車両で「流電」として親しまれた。デビュー当時は足回りにカバーがつけられたスマートなスタイルだった。
この004号は2本目の4両編成の1両で、1本目とは違ってクリーム地に窓周りと足回りカバーが茶色というカラーリングで登場。のち、水色の濃淡+赤帯という「アイスキャンデー」塗装にもなった。
阪和線に転用され「阪和特急色」で活躍した後飯田線にやってきて、快速色(湘南色の緑を紺にした感じのもの)、湘南色と塗り替えられ、最終的にはスカ色で引退した。
現在は登場時の塗装・カバー付に復元されている。


◆オハ35 2329


全国で活躍した一般型客車。製造年次や改造などによりさまざまなバリエーションがある。


◆ED18 2


ED17電気機関車を飯田線で使用するために改造した車両。飯田線の線路規格が低いことから、台車に1軸ずつ加えて各車輪への荷重を減らした。
写真の翌年奇跡の現役復帰を果たし「トロッコファミリー号」牽引機として飯田線で活躍。現在は佐久間へ移動する前にいた浜松工場に戻り、新たな居場所となるJR東海博物館の完成を待っている。


◆ED11 2



国鉄より前、鉄道省時代の1923(大正12)年にアメリカのGEから2両輸入した機関車。浜松工場に保存されていた。
短い車体に2基のパンタがくっつくように載っているのが特徴。1号機は西武に移籍後廃車となり、横瀬で保存されているそう。


◆オハ35 206




残念ながらこの車両のみ全身を写した写真が残っていないのだが、車内の写真は撮ってある。
窓から顔を出しているのは高2の私だ。


◆スハフ34834


最終はオハフ33 115となった車両。赤帯の入った三等車時代の姿になっている。


◆マイネ407





マロネ40 7を経て最終はオヤ41 1となった寝台車。一等車時代の白帯姿で、進駐軍専用車を示す「J.G.R.」の表記も再現されている。
展示中の劣化で再塗装されてから、このJ.G.R.の表記は書体が変わったようだ。
なおオヤ41は工事車で、鉄道工事現場作業員の移動兼宿泊用として寝台を活用したもの。


◆オロネ10 27


最終はオヤ10 2となった車両。10系客車の一員だが、20系のナロネ21がベースとなっているため他の10系客車とは屋根の高さが合わない。ナロネ21の改造ではなくオロネ10として新造した車両だ。
現役引退後は上のオヤ41とペアで使う工事車となり、固定窓はユニットサッシに改造された。写真当時はその姿のままだが、のちに固定窓への復活改造を施したようだ。


◆スニ30 95


最終はスエ30 8となった車両。ダブルルーフが特徴のオハ31系の17m荷物車。


以上が開園当時の展示車両たちだ。
各車両、露天ということで一時はみすぼらしいほど日に焼けてしまった時代もあるようだが、再塗装や原形改造などを施しながらクモエ21以外は生き残っている。
ここに載せた車両でJR東海博物館に移る予定がないのは、クヤ165-1、クモハ12054、スハフ34134(オハフ33 115)。
クモハ12に関しては惜しい気もするが、代わりに伊那松島にいるクモハ12041が入る予定。



これが佐久間レールパーク内から撮った本線上のクモハ12041。現在の117系のように、当時佐久間レールパークへのアクセス列車として使われていた。
ただ、Hゴムの妻窓など牽引車として変身した後の姿。改修中の写真が鉄道ファンのサイトで7月に公開されているが、JR東海博物館に入る際はどういう姿になっているのか?

次回の記事は佐久間レールパークへの移動の際の写真を。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2009/09/26

京成 Airport Express

過去の記事のとおり、シルバーウィークに京成の新スカイライナー・AE形を追っかけた。
…ということで、今回の記事は京成で唯一やってなかったAE系のなつかし写真をアップ。


初代AE形

京成が成田空港へのアクセス特急として初代AE形6連5本を登場させたのは1972(昭和47)年のこと(竣工日は2月7日)。
独特な形式名は“Airport Express”から。開運号1600形を思わせるクリームと茶色のカラーリングの車両は、下ぶくれの車体断面、固定窓、冷房、界磁チョッパ制御など京成ではどれも初めての装備。同じく革命的な初のステンレスカー・3500形は同年の12月の登場で、登場時のAEは赤電・青電が走り回る京成線内で飛び抜けた存在だった。

当初成田空港はその年の10月に開港予定だったが、反対の動きなどいろいろあって目処が立たず、AE形は1973(昭和48)年12月末に上野—成田間の特急列車としてようやく使用を開始。2年弱の間営業列車として使われることなく待っていたわけだ。
「スカイライナー」の愛称はその当時からだが、ヘッドサインははじめは「特急」という漢字2文字が書かれたものだった。

1978年5月20日にようやく成田空港が開港。念願の空港特急としての活躍が始まった。
1983(昭和58)年から塗色変更が順次施され、国鉄特急のようなシンプルな塗装はトリコロールの派手なものに変わった。私が小3の頃だったが、変更当時の沿線住民の評判は芳しくなかったと記憶している。これが京成の赤青塗装の始まりで、のち2代目3000形まで受け継がれることになる。



初代AE形(1989・東中山)

旧成田空港駅(現・東成田駅)終着時代は6連で運行。運転台の銀色の日よけと車号表記はデビュー当時はなかった。
車号は6連ながら将来の10連化を想定した付番になっていて、上野方から10-9-8-3-2-1という番号がついている。


初代AE形(1989・京成西船—海神)



初代AE形(1989・海神—京成船橋)

高架化前の京成船橋付近を行く。
初代AE形は運用番号をカードで表示。せっかくの前面デザインの中、ちょっと目立ちすぎにも思える。


3150形・初代AE形(1990・東中山)

4番線にいるのは3300形未更新車かな?


1991(平成3)年3月に現在の成田空港駅が開業することになった。これは成田新幹線用に準備された路盤を活かしたもので、JRもこのときから成田エクスプレスをひっさげて空港輸送に参加。高規格の複線の路盤に標準軌と狭軌の単線並列という不思議なスタイルができあがった。
それまでの成田空港駅(→東成田)は空港ターミナルから離れていた。連絡バスでの移動を余儀なくされ、それがスカイライナー利用者を呼び込むための障害にもなっていた。
ターミナル直結による利用者増を見込み、前年に新形式のAE100形が8連で新製され、初代AE形も一部中間車化改造をしつつ8連5本に組み替えられ、余りの先頭車2両が残念ながら廃車になった。


初代AE形(1991・京成高砂)

雨の高砂を上野へ向かって通過する。


初代AE形(1991.12.23・京成西船)


初代AE形(1992.2.2・船橋競馬場)

前日の大雪を屋根にも載せて走る。
こうしていろいろな写真を見ていると、初代AEの先頭車の連結器は「横チン」になっていることが多いのがわかる。

AE100形の増備が進み、1992(平成4)年7月には初代AEはAE-70F1本だけとなってしまった。この1本もAE100形の予備車にすぎなかった。
引退した初代AEは順次3400形に姿を変えていき、書類上はいまも現役だ。




初代AE形(1993.4.2・東中山)

写真の93年4月ごろはAE100形の入場中の代走として久々に活躍したが、それが最後となった。3枚目の写真は4番線で3400形が待避している。初代AEとそのなれの果てである3400形が同時に活躍したのは、この代走の頃だけなんだそう。



初代AE形(1993.4.2・宗吾参道)

同日の宗吾参道での風景。回送のAE100形が待避している。


初代AE形さよなら運転(1993.6.27・京成臼井)


3400形(1993.6.27・京成臼井)

初代AE形は1993年6月27日のさよなら運転をもって引退。特製ヘッドサインとモールでの飾り付けが施された。
3400形は見ての通り同じ場所でさよなら運転列車の前に撮ったもの。初代AEと顔を並べた写真は残念ながら撮れていない。



初代AE形さよなら運転・回送(1993.6.27・谷津)

さよなら運転の客扱い区間は京成上野→東成田→宗吾参道で、谷津での写真は一旦の入庫後に高砂に向かったものだと思われるが、詳細は憶えていない。


AE100形

AE100形は前述のとおり現・成田空港駅開業に備えて8連で登場したスカイライナー用車両。京成初のVVVF&8連固定で新製された形式となった。
車体はハト胸だった初代AEから変化した先頭形状と側面の連続窓がスピード感を演出するが、反面特急車としては不自然な部分もある。それは正面の非常扉とすそ絞りのない車体断面で、これは成田と羽田の両空港を結ぶために都営浅草線・京急への乗り入れを想定したもの。しかし、現在までその想定は現実化せず、成田空港—羽田空港直通列車そのものもわずかな本数しか運転されていない。


AE100形(1990.7・京成西船)

デビュー間もない頃のAE100形。現在もほぼ外観の変化はないまま推移しているが、過去の記事に書いた通り、当時の京成は日中ヘッドライトを点けていなかったため、ヘッドライトを露出したAE100形の昼の姿はなかなか見られなかった。


AE100形(1991・京成高砂)


AE100形(1992.5.3・京成関屋)


AE100形(1993.3.3・東中山)

うーん…、ライト以外今と変わりなさすぎるな。

来年成田新高速鉄道が開通すると、AE100形にも何らかの変化が起きるかも知れない。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2009/09/23

09.9.23 ちゅう散歩

なんと4日連続京成に。シルバーウィークは初日こそ草野球の試合をしたが、あとはこればっかりだ。

昼すぎに高砂へ出向き、金町線をチェック。…3日連続ファイアーオレンジ閉じこめだ。早くも見飽きた。
…そうすると、赤電・青電もまた千葉線にいるかと期待し一気に千葉線に移動。

京成津田沼で新京成からの千葉中央行に乗ると、早速赤電とすれちがった。
これまでみどり台や西登戸なんかで撮ったので、今回は稲毛で待ってみる。上りホームには先客がいたので、下りホームの端から撮る。



3300形赤電(京成稲毛)

赤電から降りてきた少年撮影者が電車の近くを歩いてこちらに向かってくる。私がカメラを構えているのにだ。上りホームには中年先客のカメラバッグが放置されていたり、KYな人間ばかり。画が不自然だ。一般のお客さんだったら仕方ないところだが。

奴らと居合わせるのがイヤなので、次の新京成車で千葉中央へ。
稲毛で迎えようと思った上り京成車に青電が来ないかと期待するが、やってきたのはグレーの3300形トップナンバーだった。


3300形(千葉中央)

すれ違ってきた列車たちから千葉線・千原線に青電がいないことが確定したので、ここで折り返す。
青電はともかく、新京成8502Fに会いたいのだが…
松戸行に乗り込んですれ違う列車を気にしながら進み、結局新京成の習志野までやってきた。



新京成N800形(習志野)

習志野で降りたのは初めて。市の名前だが、駅はとても静か。習志野市の代表駅はJR津田沼駅で、船橋市との境に位置し、ホーム西側は船橋市にかかっている。
N800形はこのところ撮影に出かけるたびに会っている。8502F同様、唯1本しかないんだが…。


新京成8800形(習志野)

乗りっぱなしなのも飽きてきたので、上りの8800形を迎えて撮ったところで外に出て沿線を歩いてみることにした。途中で走行写真を撮れそうな場所があれば狙ってみるつもり。

上り(松戸方面)ホームの真裏の細い道を抜け、踏切を通る道を渡って住宅街を進む。線路と道は住宅を挟んで並行している。
ちょっとの時間で道は線路に接し、早くも次の北習志野駅が見えてきた。駅の直前で次の上り列車に追いつかれる。電車は10分ヘッド。習志野で出入口から一番遠い位置で前の列車を撮ってから出たことを含めて考えると、習志野—北習志野は徒歩10分くらいか? ただし私は並より速い歩き方だ。

次の高根木戸までは完全に線路際直進で行けるようなので、歩き続行。
北習志野—高根木戸間は複々線化ができそうなほど線路際の敷地が空いている。せっかくの線路際の道だが、線路まで遠い分車両に架線柱が被りまくって撮影には適さない。
高根木戸もすぐ着いてしまった。まだまだ歩き足らず、駅の松戸寄りの踏切を渡って線路東側へ。昼からカラオケの声が聞こえる場末風プチ歓楽街を抜けるともう高根公団駅が見えてきた。

高根公団と次の滝不動の間は3日前に歩いたばかり。駅間距離は少し遠くなるが、その記事の最後に書いた踏切に行ってみようと、さらに歩を進める。
3日前とは反対の、線路西側の住宅街を進む。駅から2つめの踏切は、思っていた場所ではなくスルー。この辺りは牧場の糞の香りがしていて、それだけでも遠いところに来た気分になってしまう。

焦げ茶の巨大な柱が威圧的なゴルフ練習場の脇を進むと2つめの線路へ伸びる道が現れた。あぁ、ここだここだ。運がいいのか悪いのか、踏切に到達する前に警報機が鳴り出した。


新京成8900形(滝不動—高根公団)

新京成らしい美しいカーブ上にあるこの踏切。んが、アングルを考える間もなく列車が来てしまった。
反対側からも見てみたが残念ながらアウトカーブは撮りづらい感じ。列車を待つことなく先へ進みだすと、ほどなく上り列車がやってきた。イン側を歩いていたので、無理に撮ってみる。


新京成8800形(滝不動—高根公団)

架線柱、街灯、ゴルフ練習場…と柱だらけだ。

カーブに沿った素朴な道を進んで一旦滝不動駅前に出てから、3日前につづいてまたアイスクリームを食いに行く。


佐久間牧場あいすくりーむ工房(2009.9.5)

休日は混雑していて、あまり枠の多くない駐車場はすぐ満車になる。写真の9月5日土曜は正午過ぎに寄ったが、わりと空いていた。やはりおやつ時(どき)が混む感じなんだと思う。


「ラテ」

アイスクリームはジェラートタイプ。この「ラテ」は牛乳に甘味を加えただけの基本形。濃厚なミルクのステキなウマさだ。
人気は「丹波の黒豆」で、自家製の黒豆を使ったもの。私のイチ押しはラテに少し塩を混ぜて甘味を引き立たせた「しお」。

佐久間牧場の前の道を直進すると、滝不動駅の松戸方の踏切に出る。この道は高根公団駅の松戸方も踏切で渡っていて、新京成がぐにょぐにょ曲がっているのがよくわかる。
楽しいのは初富駅の津田沼方を踏切で抜ける県道57号線(一部国道464号線と重複)で、初富の踏切を過ぎるとすぐ東武野田線の高架をくぐり、北初富駅津田沼方の踏切、くぬぎ山—元山間と元山—五香間の踏切と4度新京成と交わるのだ。野田線もわりと近い時代まで地平を走っていたので踏切だったはずだ。

滝不動駅の松戸方の踏切からは、となりの踏切が見えたので、三角形の2辺を歩くように道を伝ってそこへ行ってみた。
渡った直後に警報機が鳴り、下り列車がやってきた。またもアングルが悪いが撮ってみようとしたら、アイスクリームを撮ったときのマクロモードのままになっていて、列車は撮れず。ま、ノーマルな8800形だったからいいや。

次の三咲まではそこそこの距離。住宅街をクネクネと抜けると中型スーパーの脇に出て、その先に駅があった。
ここで電車に戻る。ちい散歩を凌ぐ距離なので「ちゅう散歩」だ。ちなみに佐久間牧場の店舗には『ちい散歩』で訪れた地井武男のサイン色紙が飾られている。

きょうもまた北総経由で帰ろうと上り電車を待つと、千葉中央から帰ってきたN800形がやってきた。よく遇うね。
なお、ちゅう散歩中はなるべく通過する列車を確認しながら進み、8502Fは通らなかった。唯一、滝不動から三咲への移動中に千葉中央行列車を見ることができなかったのだが、まさか、それが8502Fってことはないよな…


新鎌ヶ谷で北総にのりかえ。


北総9100形(新鎌ヶ谷)


京急新1000形(新鎌ヶ谷)

下り列車を撮って、4分後に来た上り羽田空港行で高砂へ向かう。前日の記事を見返すと、上の写真と同じ29N印旛日本医大行を東松戸で撮り、そこから乗ったのが京急新1000形の列車。現場でうすうす気づいていたが、やはり東松戸からは前日とまったく同じ列車で進んだことになる。

この2日、北総線内で見た北総車は9100形と7500形ばっかりで、7300・9000・7260形には会わなかった。
前日は高砂で7260形が出て行ったのを見たけど。後ろ2形式は早く撮っておいたほうがよさげな気もする。


前日とは違って高砂からはとっとと快速で東中山へ還る。
千葉線から上ってくる赤電が来そうな気配なので少々待っていると、4番線に3700形6連の普通列車がやってきた。


3700形(東中山)

6連口だったら当然千葉線にも入るんだろうが、私はナマでそれを目にしたことがなく、3700形のちはら台表示は新鮮に映った。


3300形赤電(東中山)

前日と同じような写真。きのうとの違いは、運用番号が2つ減っていることだ。
赤電を以て撤収。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)