2009/08/31

09.8.28 赤電が撮れない…

この日は休みにしてあったので、午後から京成に。

青電に続くリバイバルカラー第二弾・3300形赤電が最近登場したばかりだ。

ひとまず新AE形を見てやろうと宗吾参道へ。
降りたってしばらくすると、佐倉で退避ホームにいた都営5300形トップナンバーが回送でやってきた。


都営5300形(宗吾参道)

アルミ車体だが白く塗装されたボディは登場時からほどなく汚れが目立つようになり、のちに塗料の質を変えたんだそう。架線の鉄粉も混じった雨水の流れた跡だったり、窓やドアのフレーム部分の茶色い汚れがひどかった。同じく汚れが目立ちやすかったピンクの背ずり(←特にこっち)とグレー座面の座席も交換された。


汚れていた5300形(京急川崎・1992.4)

5300形は車庫に入り、AE100・新AE形と並んで停まった。


AE100形・新AE形・都営5300形(宗吾参道駅ホーム端より)

前日に八千代台まで試運転を行ったという新AEだが、出てきそうな感じではなかった。

自分の中では宗吾参道とAEというと、初代AE形のさよなら運転の日を想い出す。
私は友人とともに成田行ホーム(3番線)の上野方に立っていた。成田方から戻ってきて車庫入りするAEを撮るためだが、このとき、京成の係員が誰となく「どっちの線路に入れようか?」と撮影に来ているファンたちに訊いたのだ。もちろん自分達は「こっちこっち!」と2番線をアピール。見事主張が通ってAEは2番線に入ってきた。




さよなら運転のAE形が一旦車庫入り(宗吾参道・1993.6.27)

このさよなら列車の運用の流れは憶えていないが、このあと夕方の谷津で「回送」の運用札で走る姿を捕らえている。
(後日追記:京成上野→東成田→宗吾参道が客扱いコースだったようだ)


3700形(宗吾参道)

3700形の特急で西へ。今は宗吾参道や大佐倉に特急が停まるんだよな。かつては小岩や東中山にも停まったもんだが、それらが通過になったのと逆に現在の特急は佐倉以東の各駅停車も担っている。んが、スーツケースを持った客と地元の通学生なんかが同居するのはなんともかんともだ。
朝の上りと夜の下りは佐倉以東も通過運転をする快特や都営浅草線直通の通勤特急が走っている。


3600形快特(京成中山)

中山でちょろちょろ撮ったりするうち日が暮れはじめてきた。
情報と東京時刻表を併せて調べると、赤電が昼寝を終えて金町線—上野の運用に入ったらしいので関屋へ出る。


3300形(京成関屋)

最新車両でも1972(昭和47)年製の3300形は現在4両編成8本が在籍。うち2本が青電・赤電となり、9月にファイアーオレンジが登場予定。
今後成田空港アクセスBルートが開業すると、いろいろと車両の動きが出るだろう。たとえば初代AE形→3400形のようにAE100形を廃車して新型通勤車両に機器を譲ったりとか…


3500形更新車による8両編成の上野口普通列車(京成関屋)

上野口にも8両編成の普通列車が走っているのは知らなかった。都営・京急直通車がほとんどになった押上線は8両普通の歴史が長いが。
調べると、宗吾参道から成田方面へも8両編成の普通があるそうだ。

関屋は成田方のカーブが魅力。上野からやってくる赤電を待つ間、カーブを出入りする列車を狙う。


3500形未更新車(京成関屋)


AE100形(京成関屋)


3000形(京成関屋)

日はどんどん暮れていき、赤電が来たころにはフラッシュなしではきつい状態に。当然フラッシュを使わず赤電を撮ったものの、ひとつもキレイに撮れず。
ホームの明かりを借りて撮れる青砥へ出て、金町から戻ってくる赤電を待つことにした。


北総7500形(青砥)

しかしハプニング。なんと、北総7500形を撮ったあとデジカメの充電切れが発生。充電をしてきたつもりだったが、どうも充電器にバッテリーがしっかり刺さってなかったようだ。
そんなに撮られたくないのか、赤電よ… しかたなく予備機…いや、ケイタイで撮影。


3300形赤電(青砥・mb)

上半分のクリーム(正式にはモーンアイボリー)がずいぶん濃いように感じる…。これまでずっと千葉県市川市で生きてきたので、赤電現役時代も京成を見たり乗ったりしている。ちなみに、ケイタイで撮った写真はそのクリームの濃い感じがあまり再現されていない。
そういや、関屋で見た3300形のグレーも「こんなに緑色っぽかったっけ?」と感じた。それは、かつての京成車両の台車の如く。薄暮だった影響もある。色の記憶、そして記録は難しいな。


3300形(江戸川・1995.4)

写真の3316F4連は出場間もなく台車の緑系グレーが目立つ状態。
ちなみにこの編成はファイアーオレンジ時代にクロスシート試験車となり、現在は北総にリースされているという激動の車両。


最後に京成曳舟駅を観に行く。
曳舟は8両対応のためにホームを移設したときから仮設のような狭くて簡素なホームが長い間使われてきたが、ついに高架化が決定。工事用地確保のためこの日をもって従来の下り線ホーム(2番線)の使用を終了することになった。


左が廃止される従来の下りホーム(京成曳舟・mb)

下りホームに移る&帰るため押上方の改札を出ようとしたら、中年男性に話しかけられた。細かい言葉は忘れたが、東武の曳舟駅のつもりで入場してきたらしく、「ここは東武じゃない」ということを教える。改札脇の部屋に駅員の姿はなく出られないようで、「となりの押上でのりかえたら?」と提案した。
ぶつぶつ独り言を言いながら押上方面の列車に乗ったその人がその後どうなったかは知らない。


左が翌日より使用開始の新下り線。中央が従来の下り線(押上方踏切より・mb)


従来の下りホームに到着した北総線直通の3700形(mb)

下りホームに入ったらやって来たのが3700形の印旛日本医大行。なんだか見慣れない、京成車の北総直通列車。
東京時刻表で調べてみると、現在は平日の夕方に2往復だけ北総に入る運用がある。その遅い方がこの列車で、一応「京成曳舟旧下り線を通った最後の北総直通京成車」ということになる。
…どうでもいいか。


千葉ニュータウン行3300形が引き上げ線から入線(京急川崎・1992.4)

北総線の高砂—新鎌ヶ谷間開業直後は京成車の北総乗り入れももう少し本数があり、日中も見られた。
写真は3328-3349の6連で、3・4両目の1ユニットを廃車して4連化され、現在も走っている。

翌日、浅草のグラウンドで草野球をやるために偶然車でこの駅を通りかかった。京成曳舟の青砥方は明治通りの踏切になっていて、この踏切の手前だけ大渋滞。日中1時間に上下24本の列車が通るわけで、車が数台渡ると踏切が降りる状態だ。
駅に接しているため下り列車が駅に停まる前から遮断機が下り、駅間より封鎖時間は長い。高架化がここまで遅かったのがウソのようだ。

踏切を渡る際に新旧の片面ホームが2線並んでる異様な光景が見られたが、これもほんのわずかの間になるだろう。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

2009/08/13

東武 なつかし写真・4

東上線の写真もあったので、今回は東上線編。東武なつかし写真はこれで一旦締めとする。


池袋 Ikebukuro


8000系(池袋・1990)

工事中の池袋駅。
後部で乗務員もいないので思いっきりフラッシュ撮影しているが、ゼブラ(タイガー?)が反射していてうるさい画面に。
営団有楽町線新線(→メトロ副都心線)の開業以降、和光市から行ける池袋駅が3つになった。
定期を持っていない沿線の人々は使い分けをしたりするんだろうか?
なお、新線池袋駅が開業したのは写真より後の1994年。


大山 Oyama


10000系(大山・1990)


8000系(大山・1990)

大山はカーブ上にある駅で、堀切みたいな感じ。
大山といえば立派なアーケードとその脇にあるグリーンマックス本店だ。ま、私の中では鉄道模型は写真以上に遠ざかったままだけど。


上板橋 Kami-Itabashi


8000系(上板橋・1990)


9000系(上板橋・1990)

上板橋は2面4線で退避が行われるが、優等列車は停まらない。写真のとおり、上下線とも北側が通過線という面白いルールになっている。
大師線は本来この駅まで伸ばす予定で造られた路線だが、たった1駅で終わってしまった。実現していれば伊勢崎線と東上線が自社の線路でつながったわけだ。現在両線で車両のやりとりがある場合は寄居—羽生間で秩父鉄道を介している。


和光市 Wakoshi


8000系(和光市・1993.3.7)


10030系(和光市・1993.3.7)


10030系(和光市・1993.3.7)

和光市は池袋から進むと最初の埼玉県の駅。
1987(昭和62)年に営団有楽町線が到達すると2面4線の駅となり、志木までが複々線区間となった。
営団が東京メトロとなった現在は副都心線の籍も加わり、新宿三丁目・明治神宮前(原宿)・渋谷といった駅へ直通列車が走るようになり、車両のバラエティも豊富になった。




営団7000系(和光市・1993.3.7)

有楽町線の線路は、東上線の下り線をまたぐため駅を出るとすぐ上り坂。ここを走る列車は画(え)になる。
現在、金帯の7000系は減少の一途で廃車も進んでいる。ゆくゆくは副都心線仕様の車両だけになるそうだ。


朝霞 Asaka




8000系(朝霞・1993.3.7)


10050系(朝霞・1993.3.7)



営団7000系(朝霞・1993.3.7)

朝霞は市の名前のついた駅だが、優等列車は各駅停車区間に入っている準急しか停まらない。
つまり、志木方面の電車はすべて各駅停車だ。
しかしホームは4線分あるので、池袋から準急としてやってきた電車はきちんと外側ホームに停まる。


10050系(朝霞・1993.3.7)

10050系は1992(平成4)年からの登場で、写真はまだピチピチの頃と言える。


志木 Shiki


9000系(志木・1990)

有楽町線からの9000系志木行。
志木は複々線区間の終点なので、折り返し列車も多く運転される。

さて、ピチピチの10050系や8000系更新車も含め、ご覧のように東上線の車両の方向幕は残念なことになっていた。
最後の写真のような有楽町線直通運用の9000系を除き、地上運用は一貫して「池袋—○○」の書式になっていたのだ。
これでは方向を間違えている客が気づかないことや、文字が細長く可読性に欠けるという点もある。
伊勢崎線ではやっていなかったこの措置、いったいどんな理由だったんだろうか?
(追記:どうやら8000系なんかの手回し式の方向幕が…で、労組がなんたらかんたらだったとか…)

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)

東武 なつかし写真・3

伊勢崎線第3弾は春日部から南の駅でのもの。


草加 Soka


10000系・営団3000系(草加・1992.1)

草加は東武が誇る長大複々線区間の主要駅。現在草加を通る普通・南栗橋行きは平日・土休日とも朝と深夜に1本ずつしかない。



350系・8000系(草加・1992.1)

草加は2面4線ののりばの外側に通過線を備えるため、急行が準急を抜くというシーンも。総武線の市川に似ている。


小菅 Kosuge


8000系(小菅・1992.1)

こちらは小菅の下り線で後追いした普通・南栗橋行。写真当時は珍しくなかった列車。
小菅は常磐線・千代田線・首都高と絡むダイナミックなカーブ上にある駅で、コンパクトカメラでも迫力のある写真が撮れる。


200系(小菅・1992.1)


8000系(小菅・1992.1)


2000系(小菅・1992.1)

小菅のホームはかさが低くコンクリート舗装で、点字ブロックは日比谷線系統の18m8両分に届いておらず、質素で武骨なイメージがあった。今はどうなってんのかな?


6050系(小菅・1992.1)


営団3000系(小菅・1992.1)


20000系(小菅・1992.1)


100系(小菅・1992.1)

上り線はアウトカーブ。南側には東京拘置所がある。


堀切 Horikiri



1800系(堀切・1992.1)

金八先生の舞台に近い堀切は、荒川に沿ったカーブ上に設けられた駅。この荒川は「荒川放水路」で、隅田川がもともとの荒川である。
荒川(→隅田川)の洪水対策で東京湾へのショートカットとして造られたのが荒川放水路で、堀切駅はこの川の開削によって移転しいまの位置になった。そのため隣の牛田からの距離は近く、また同じ「堀切」でも京成の堀切菖蒲園駅は荒川の対岸にある。




100系・10030系(堀切・1992.1)

写真の普通列車も南栗橋行。


鐘ヶ淵 Kanegafuchi


8000系(鐘ヶ淵・1991)

鐘ヶ淵はカネボウ(←鐘ヶ淵紡績)の創業地だが堀切とともに典型的な東東京の下町にある駅で、いまもさほど変わらぬこの風景を東京西郊のニュータウンの象徴である東急8500系が通過していく様はとてもミスマッチ。
ここもホームが低く、いちばん似合うのは金八に幾度となく登場するクリームの7800系だ。


東向島 Higashi-Mukojima



8000系(東向島・1992.4.29)


デハ1(東武博物館・1992.4.29)

東武博物館が併設されている駅が東向島。1987(昭和62)年までは名鉄尾西線の終端駅と同じ「玉ノ井」駅だった。
高架2面2線対向式ホームの駅は東武では珍しい存在で、私は他に野田線の新船橋くらいしか見たことがない。
博物館は高架下にあり、高架線脇に設けられたのぞき窓から実際に走る列車の足元を見物できる。博物館は7月22日にリニューアルされ、復元された5700系Aタイプなど見所が増えた。

写真の8000系は浅草発の準急伊勢崎行で、現存しない伊勢崎線を全線走破する列車。現在浅草発は太田までの運転で、末端の太田—伊勢崎間は東上線の小川町—寄居同様ワンマン列車のピストン運転のみ。


業平橋 Narihirabashi


100系(業平橋・1991)



8000系(業平橋・1991)

業平橋は起点・浅草の次の駅。浅草は構造上20m車6両までしか入線できない。
通勤ラッシュ対策として10両編成の電車を走らせるため、浅草をあきらめて10両編成のターミナルに選ばれたのが業平橋。
写真のスペーシアが走る右側の貨物ヤードのスペースを活かして10連対応の行き止まり式の地上ホームを新設した。また、このホームの設置により京成・都営地下鉄押上駅が近づき、連絡通路を設けてのりかえ駅として生まれ変わった。

現在は東武としても押上駅ができて半蔵門線への乗り入れを行っているため地上10連ホームも連絡通路も姿を消したが、取り扱い上は押上と業平橋は同じ駅になっている。地上ホームの跡地は東京スカイツリーの用地となり、いま竹の子のようにニョキニョキと育っている。


1800系(業平橋・1991)

浅草方からやってきた下りりょうもう。後ろに金色のウンコといわれる吾妻橋のほとりのオブジェが見える。


浅草 Asakusa


1800系(浅草・1991)


1800系(浅草・1992.1)

浅草駅は行き止まり式のターミナル駅。
複々線で都心へ向かってきた伊勢崎線は北千住・曳舟で地下鉄へ逃げるため列車本数が減り、優等列車こそ多いもののどこか寂しい駅になっている。
隅田川に平行した松屋のビル内にありながら出発するとすぐ隅田川を真横に渡るため、ホームの端は曲がって狭くなっている。そのため、隅田川を渡る列車はかなりの徐行運転だ。写真の1800系は半分の4両目から先が右に曲がっているのがわかる。




1800系(浅草・1992.1)

この駅で撮った写真はなぜか1800系しかない。なんでそうなったのか今考えても不思議で仕方ない。


南千住 Minani-senju


2000系(南千住・1991)



20000系(南千住・1991)

さいごは日比谷線内の南千住。
南千住というとディープなイメージがあったが、現在は再開発が行われ、隅田川沿いに新しい集合住宅が林立。駅の周りはずいぶんと変わってきた。
日比谷線は北千住・中目黒とこの南千住が地上駅だが、営団のものはこの南千住だけ。倉庫のような無機質なホームは独特の雰囲気を醸し出している。

(右フレーム上部から入れるアルバムに、掲載した写真をカテゴリ別にまとめています)